【和歌山県】湯浅(湯浅町)
醤油発祥の地/全国的に珍しい醸造町の重伝建/遊里が3カ所も
湯浅の街と言えばこの風景、堀に水がないのだけが残念ですがw
ちょうど1年前の夏に初めて和歌山県を訪れた。
目的は2つで、一つが和歌山市に残る場末の遊里(といえばお分かりですね)、そしてもう一つが今回取り上げる湯浅町。
当時は大阪を宿泊地としていたが、その大阪からは県都和歌山まで電車で1時間、更に湯浅までは40分強なので、大阪への通勤圏としては微妙な距離かと。
人口1万人超という規模だが、実は醤油発祥の地という由緒ある町。
鎌倉時代に禅僧覚心が宋より伝えた「金山寺味噌」の製造過程から生まれたという。
国内の醤油醸造は湯浅から始まり、江戸時代には紀州藩の保護もあって90軒前後もの醤油屋が軒を連ねていたという。
そんな醤油醸造を中心に発展した湯浅の街並みが重伝建指定されたのは平成18年、これは和歌山県で初(というよりは唯一)、醸造町としては全国初だ。
因みに醸造町の重伝建は、他に浜中町八木本宿〈佐賀県〉と喜多方〈福島県〉、合せて3カ所のみ。
そんなわけで、醤油で繁栄した古い街並みを歩くというのが目的の一つなのだが、実は湯浅には少なくとも遊里が3か所も存在していたらしい。
さほど大きくない町に遊里が3か所とは多い気がするが(失礼)、裏を返せばあれだけ反映していた要因がいくつも重なっていたからということだろう。
その要因の一つが醤油産業で潤っていたという事なのだが、それだけでは3か所も遊里ができる筈もない。
湯浅町は紀伊半島西側、海が陸に深く入り込んだ入江の奥に位置し、入江には広川が流れこみ、山地が海に迫る地形で、そんなわけで湯浅港は天然の良港だった。
山地には有田蜜柑が獲れ、港からはその蜜柑が全国各地に船で運ばれるというわけだ。
一方で市街地には熊野古道が南北を貫くように通っていて、京阪神からの熊野詣の行き来が盛んで、宿駅としても栄えた。
こうした要因が重なって湯浅は物資の集散地として町場が発達し、醤油醸造を主産業とした紀州きっての商業都市に発展する。
湯浅のこうした発展で、遊里も3か所も抱えることになったというわけだが、先人たちのサイトを見ると、少なくとも名のある遊里が3か所確認されているというわけで、重伝建エリアに向かいながらまずは遊里探訪という感じ。
注・なお、今回の記事はちょうど1年前に書いたものを修正したものです。
* * *
和歌山から50分、湯浅駅に降り立ったが、駅舎の外観を見ると相当年代ものみたいだ。
昭和2年に紀勢線がここまで延伸してきたが、その当時のものだという。
和歌山県には近年まで重伝建地区がなかったが、平成18年にこの湯浅が指定を受ける。
しかも、全国でも唯一「醸造町」というカテゴリーでの指定という。
観光客なら駅からひたすら重伝建エリアのある北を目指していくわけだが、素直にそうするわけにはいかないのだよねw
この案内版をよ~く見ると......
「旧茶屋街」
のっけから駅のすぐそばに最初の遊里跡を発見。
さっそく目的地に向かうが、途中の商店街、重伝建地区があって観光客もそれなりにいそうなものだが、見ての通り人っ気があまり感じられない。
まあ、電車が止まるのは1時間に2本なので、鉄道よりはむしろ車で訪れる人が多いのかもしれないが。
それにしてもこの寂れよう......
古い商店が軒を連ねているが、かつて芸妓さんが行き交っていた頃はさぞ賑わっていた事だろう。
妓楼のような佇まいを見せている「紀文食堂」、ここから路地に入って行ったところが件の遊里跡だ。
そういえば紀文といえば紀伊国屋文左衛門だが、実はここ湯浅の出身なのだ。
有田の蜜柑を江戸まで運んだという伝承はフィクションという説が根強いが、商人として実在していたのは確かのようだ。
近くにある電柱を見ると、遊里を意味する「新地」という名が見える。
この辺りで間違いないようだ。
細い通りの両側に密集しているのは恐らくかつてのお茶屋だろう。
向こうには紀勢線の線路が見える。
恐らく、電車の窓から紅燈が灯されている賑やかな夜の街を望むことができたのだろう。
2階建てのお茶屋らしき建物が軒線を揃えて並ぶ。
このシークエンスの美しさが見事だ。
とはいえ、遊里の紅燈が消えてだいぶ経つのか、空き家もちらほら。
主がいない家屋はこうして自然に朽ち果てるのを待つばかり。
地震が起きたら大丈夫だろうかと余計な心配をしてしまう。
2階の桟を見ると、普通の家屋ではなく茶屋のそれと思わせる。
玄関脇に綺麗な状態で残るタイル張りも、よく遊里跡に見られる特徴。
2階の手摺からは今にも芸妓さんが出てきそうな佇まい。
この新地は醤油商が密集している重伝建からは微妙に離れているが、近くに港があるようにそこで働いていた人たちが御贔屓にしていたのだろう。
近くの港に出る。
対岸に石積みの中波止が見えるが、これは慶長6年のものだという。
船乗りたちはここで立ち寄って、近くの新地に繰り出したのだろうか、そんな想像をさせる。
黒潮が流れ、悪天候で船が出せなくなることが少なくなかったであろう、それ故に湯浅は風待ち、汐待ちの港として栄えた。
そして、そんな船乗りたちを相手する花街もできる、といったところか。
傍には弁財天が祀られている。
花街とのつながりはあったのだろうかと探したが......
新地を後にして次の目的地に向かう途中、タイル張りのアールがある建物が。
カフェー建築をここで見るとは思わなかった。
すっかり緑化が進んでいて、商売を終えて年月が長いのを感じさせる。
そんな感じで湯浅編のスタート。
もっとも、この「新地」はまだ序の口で、これからもいい感じの街並みに続々と出くわすわけなんだが。
結構長くなりそうなので、数回に分けて書いていきます。
その2へ続く