【東京都】港区白金
台地上の屋敷街/台地下の看板建築商店街/邸宅街の中に内田ゴシック
今では「シロガネーゼ」と呼ばれるお洒落なイメージが強い、港区白金・白金台を歩きました。
山の手の南側に位置する白金から高輪にかけては武蔵野台地の末端にあたりますが、古川の流域が谷間になっていて、起伏に富んだ地形をなしています(下の地図を参照)。
応永年間(1394~1428年)にこの地を開いた人が大量の銀(しろかね)を持っていたことから「銀長者」、転じて「白金長者」と呼ばれたのがこの地名の由来(諸説あり)。
江戸時代は白金村と呼ばれたように江戸から一歩外れた郊外という感じでしたが、台地上に大名屋敷と寺社が混在し、明治期に屋敷跡が住宅地として開発され、現在の邸宅街に。
一方、古川沿いの谷間になっている平地は商業地や工業地で、特に金属や機械製品の小規模な工場が密集していたそうです。
おハイソなイメージの白金が工業地帯だった......俄かに信じられない話ですが、実際に歩いてみるとそのイメージが強いのは白金台を中心とした台地で、坂下には低階層の家屋や商店街が密集しているのがわかります。
あ、そうそう、今回からタイトルを「地名+散策日時」という形にしました。
いつもなら最後に訪問日時を記していたんですが、最初に予めタイトルに記した方が分かるのではないかと。
あと、そんな奇抜な人はまずいないかと思いますが、拙ブログを参考にして訪れたら何もなかった、どうしてくれるんだ!って言われたことはありませんが、まあ、その予防線というのもありますがねw
⁑
今回はJR山手線目黒駅からスタート。
目黒通りを東に進み、まず向かった先が東京都庭園美術館。
元々は讃岐高松藩の下屋敷だった場所で、明治に入り陸軍の火薬庫を経て皇室の財産となり、「白金御料地」と呼ばれていました。
昭和に入ると香淳皇后(昭和天皇の皇后)の叔父にあたる朝香宮鳩彦王が住み、「旧朝香宮邸」としても知られます。
設計は朝香宮と共にパリに渡った宮内省内匠寮の建築家・権藤要吉。
朝香宮はパリでアールデコに触れて感銘を受け、共に行動してきた権藤に設計を依頼、4年の歳月をかけて完成させたのがこの建物で、昭和8(1933)年竣工。
戦後に朝香宮が退去後は吉田茂公邸、迎賓館を経て、昭和58(1983)年に東京都の手に渡って今に至りますが、築80年以上にもかかわらず豆腐のようにきれいな外観をしています。
庭園美術館という名前だけあって、タテモノだけでなく芝生の西洋庭園、その奥に日本庭園も。
日本庭園の脇には茶室。
正門と旧邸、この茶室が国重要文化財指定となっています。
航空写真を見ると、広大な緑の敷地が広がっているのが分かります。
庭園美術館と隣接する国立科学博物館自然教育園を合わせたエリアが旧高松藩下屋敷の敷地で、後に白金御用地でした。
庭園博物館を出て、白金台交差点へ。
目黒通りとT字型に交差しているのが外苑西通り(ここでは「プラチナ通り」と呼ばれている)。
おハイソな場所にドンキホーテがあるとは思いませんでした。
外苑西通りから外れると、古いお屋敷と思しきタテモノも所々に。
実は、隣にスリランカ大使館という歴史的な建物もあったそうですが......
一足遅かったようです......
聖心女子学院の裏手を通って、邸宅街の台地を下っていきます。
煉瓦塀がずっと続いています。
ここから煉瓦塀の通りが下り坂になっていきます。
勾配に合わせて煉瓦塀も段々状になっているのが分かります。
聖心女子学院の通用門。
かつては前天皇の美智子皇后をはじめとする皇室皇族関係者も通われた由緒ある学校がこの地に開校したのが明治42(1909)年。
この煉瓦塀は当時のものなのだろうか。
坂道を下り切ったところ。
「蜀江坂」という名前だそう。
蜀江坂を下りると、その先に見えるのが北里研究所。
言わずと知れた北里柴三郎が開設した伝染病研究所が起源で、そのバックには福沢諭吉(1万円札の顔ですね)の援助があったと言われていますが、奇しくもその北里が5年後に千円札の顔となるわけですから、円もとい縁というのは大切ですね。
北里研究所の通りに出ました。
先程の邸宅街と打って変わって、下町でよく見るような光景。
これ、間違いなく港区白金ですよ。
その名も「白金北里通り商店街」というんですね。
北里研究所の巨大ビルをバックに、低階層の看板建築が通り両側に並んでいます。
新たにマンションが建つ前は同じような看板建築があったんでしょうかね?
古い佇まいのぜんざい屋さんがあります。
看板の文字が古い字体でいい塩梅です。
丁度お持ち帰りのお客さんがいますね、現役のお店です。
中でも「清水畳店」の看板建築は秀逸です。
目の前には首都高の高架が見えてきますが、看板建築の列はその手前まで続いています。
高架を過ぎた先は、地番が「渋谷区恵比寿」に替わりますので、そこで折り返します。
看板建築に混じって、木造の出桁造り店舗も残っています。
この辺りは戦災から免れたようですね。
窓の形も窓枠もモダンですね。
元々は何屋さんだったんでしょうか
調べて分かったのは、この店舗が大正7(1918)年に建てられたものということ、最近まで「きえんきえら」というバーが入っていたということでした。
戦災どころか、関東大震災にも耐え抜いていたというのは凄いことです。
その隣に続いている看板建築、2軒ずつ長屋状に2組残っています。
ファサードから言って、戦前でしょうかね。
こうした形の看板建築が続いている町も減っていますが、山の手の港区でまだしぶとく残っているのはありがたい。
先程の清水畳店から通りを眺めてみる。
裏手に回ると、とてもお洒落な街のイメージからは想像できない風景が。
細い路地裏は、下町そのものの風景。
周囲には高層マンションが建つようになってきてますが、そんな動きに抗うかのように昔ながらの風景を守ろうとする古くからの地元民も多いみたいです。
その1はここまで。
必ずしも全体が「シロガネーゼ」なんてスィーツ(笑)なイメージでないというのがこれでお分かりいただけたらと。
その2は再び台地上に戻り、東大でお馴染みの内田ゴシックのタテモノに向かいます。