【東京都】戦災のない東京を歩く「本郷」 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【東京都】本郷

 

湯島から岩崎庭園を経て向かったのが本郷。

本郷と一口に言ってもそのエリアは広大で、特に本郷通りを尾根にした緩やかな台地が西側に広がっていて(本郷台地)、そのせいもあって坂が多い町。

そこに明治から昭和にかけて住み着いた文人たちが数多く、夏目漱石、坪内逍遥、樋口一葉、金田一京助など錚々たる名の旧居跡が散らばっています。

そして東側にはあの学舎が......

文京区を代表する街にふさわしい、なおかつ古き良き東京の風景を散策していきます。

 

*   *   *

 

 

 

まずは本郷といえばここ、東京大学、言わずと知れた「日本の最高学府」。

そして、東大といえば「赤門」。

もっとも、赤門がメインアプローチではなく、別に正門があるのですが。

東大本郷キャンパスは元々加賀前田家上屋敷の敷地だった土地で、その御守衛門として造られたもの。

明治維新で政府に収公され、敷地内に東京医学校(現・医学部)や工科大学校(現・工学部)、東京法学校(現・法学部)などがつくられ、東京帝国大学に発展していくのですが、この赤門はそのまま残っていきます。

 

 

正門は赤門から本郷通りを北へ歩いたところ。

明治45年に完成されたもので、設計は伊東忠太。

築地本願寺に代表されるように"インド大好き"、"妖怪大好き"の建築家ですが(笑)、彼にしては大人しめのデザインではあります。

 

 

正門から入る銀杏並木が東大のメインアプローチ。

両側には法文1号館・2号館、法学3号館、工学部列品館が向かい合いながら並び、正面に行くとお馴染みのアレが見えます......

 

 

安田講堂。

正式には「東京大学大講堂」というのですが、通称の方が広く知られていますね。

安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付によって建てられたことで「安田講堂」という名がついています。

そして、安田講堂といえば昭和44年の大学紛争でしょうか。

火炎瓶と放水の応酬シーンなど繰り返し放映されたので、そっちのイメージが強い人が多いかと。

大正10年起工、設計を手掛けたのは内田祥三(あと弟子の岸田日出刀)。

 

 

安田講堂から正門の方を臨む。

銀杏並木を中心にスクラッチタイル張りの校舎が並ぶ光景、関東大震災で甚大な被害を受け、その復興計画の下でできたものでした。

それを手掛けたのが内田祥三ですが、彼が設計した校舎はどれを見ても似通ったデザインなんですね。

そのほとんどが鉄筋コンクリート建てのスクラッチタイル張り、尖塔のような屋根を持つポーチ(入口)というもので、「内田ゴシック」と呼ばれるスタイルを貫いています。

 

 

御殿下グラウンドの向こうに見えるのは東京大学医学部付属病院。

異様に横に長いタテモノだとわかります。

 

 

東大病院の前に止まっている都バスバス

構内にバス停があるのは通院客のためなんですね。

もっとも、近所の子供連れなんかが散歩している光景も見かけますし、広く開いているのは好感。

 

 

東大病院の玄関口でもある龍岡門。

バスのみならず一般の車も平気で通っていきます。

この辺りがつて龍岡町という名前だったことが門の名前の由来。

脇にある広報センター(旧医学部医師会事務所)でキャンパスマップをもらって歩きました。

 

 

構内はかなり広く、建物も多いので、こちらのタテモノめぐり。にまとめておきました。

内田ゴシックを存分に堪能できるのはいいんですが、結構歩いたなぁ......

 

そんなわけで、遅めの昼食は本郷通りにある「ルオー」さんで。

名物のセイロンカレーカレーがこれまた程好い辛さメラメラ、さらに汗をかくことにあせる

 

 

ここのインテリアがまたいいのですよ。

ソーサの形でくりぬかれた椅子がまたお洒落なんです。

 

 

腹ごしらえを済ませて、散策を再開。

「ルオー」さんの並びにある出し桁造りの本屋さん、明治時代に建てられたものだそう。

あ、そうそう、隣に見える「こころ」さんもいい感じの喫茶店ですよ。

店名は漱石の小説からでしょう。

 

 

場所柄ということで書店が所々にあるわけですが、東大の前なのに「慶應」って(;^ω^)

 

 

本郷通りの東側が東大の敷地なのに対し、西側は看板建築が所々に残っています。

この「万定フルーツパーラー」が特に珠玉で、外観だけでなく中もまたすごいんです。

今回は店が閉まっていましたが、以前ここでいただいた黒っぽいカレーは話のネタに一度は食べていいかも。

 

 

フルーツパーラーだけあって、天然ジュースは美味だったのは覚えています。

看板が昭和そのものですね。

 

 

立派な出し桁造りの日本家屋、質屋さんだったらしいですね。

この界隈は周辺に東大、そして台地という地形柄もあって戦災を免れているので、こうした木造家屋がゴロゴロ残っているんです。

 

 

こういう木造家屋が長屋みたいに並んでいたんでしょうね......

 

 

見ておきたかったタテモノが一軒、「求道会館」。

設計は武田五一、1928ビル(こちら参照)など京都中心に関西では多く作品を残している建築家ですが、これは数少ない関東の作品。

キリスト教会みたいに見えますが、浄土真宗の僧侶である近角常観が説法の場として建てたものだそうで。

大正4年築で東京都歴史的建造物指定で、第4土曜日に内部公開されているそうです。

 

 

東大に近いこともあって、古い旅館や下宿も多く集まっているわけで、この鳳鳴館旅館もその一つ。

こちらは森川別館。

 

 

本館はさらに南に歩いた場所にあります。

いつ建てられたかは不明ですが、有形文化財のプレートが掛かっていますね。

 

 

この鳳鳴館、某アイドルアニメにも出てきます。

意外なほどに廉価で止まることができるそうなので、東京に来た際には是非とも......(宣伝か!?

 

 

急坂を下りて、菊坂へ。

この辺りは樋口一葉が世に出る前に住んでいたゆかりの地。

一家が貧困だったため、この伊勢屋質店に通っていたそうです。

こちらは登録有形文化財指定、こちらも定期的に内部公開されているみたいですね。

 

 

菊坂の下に谷があり、高低差をはっきりと味わうことができます。

 

 

かつて樋口一葉が住んでいたとされる路地。

意外なことに、この風情50年前ほどとほとんど変わっていないそうで。

向こうに見える井戸も樋口一葉が使っていたとか?

 

 

出典・『東京消えた街角』(河出書房新社)撮影:加藤嶺夫

 

その証拠にこちらの写真、昭和43年の同じ場所なのですがどうでしょう、まったくと言っていいほど風景が変わっていないのがお分かりかと。

井戸があるにも、向こうの石段に木造家屋が並んでいるのも。

 

 

樋口一葉が住んでいたと思われる場所、まあこの家屋が当時からあったとは思えませんが、少なくとも戦前からこういう風景だったんだろうと想像できますね。

 

 

石段から路地を見おろしてみる。

菊坂と挟まれて谷底になっている感じになっていますね。

ここはいまも生活の営みが感じられます。

 

 

さらに奥へ進んでいきます。

狭い路地に古い木造家屋がびっしりと並んでいます。

 

 

何と「ぬけられます」状態だった。

門が架かっていて、共同住宅の感じで家屋が並んでいるんだろうかと思われますね。

 

 

その目の前も坂道になっていて、木造家屋が残っています。

「鐙坂」と言うんだそうで。

 

 

近くの案内板には「金田一京助旧居跡」とあるそうで、文人たちがこの界隈に密集して住んでいたのがうかがえます。

 

 

その近くにも古い路地裏が。

奥に進むと冒頭写真の木造家屋が向かいあっている風景に出会います。

 

 

とはいえ、人が生活している感じがしませんね。

もしかすると、遠からず消えゆくんでしょうか......

 

 

昭和から平成を経て令和と時代が進み、東京の街並みも変わるなか、ここはいまだに戦前の風景をそのまま残してくれています。

少しでも長くとどめてくれたら......そう思いつつ本郷の街並みを後にしました。

 

(訪問 2019年9月)