【東京都・大田区】遊里跡を歩く・旧「蒲田新地」 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
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観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【東京都・大田区】京急蒲田駅周辺

 

本当の目的は別の場所なのだが、その前に久しぶりに蒲田へ立ち寄った。

城南きっての繁華街で、北の"赤羽"と対比されることが多い。

赤羽と蒲田......実は2つに共通していたのが、かつて花街が存在していた点だ。

いずれも三業地ではない「二業地」なのだが、その前に三業地とは何かってことを書かねば。

三業とは、「料理屋(料亭)」、「芸妓置屋」、そして「待合」の3つのことを指し、それらすべてを持っている花街が「三業地」で、そのうちのどれか一つが欠けていると「二業地」となる。

赤羽と蒲田、いずれも芸妓置屋は存在するが、前者はプラス料理屋、一方の後者はプラス待合という形の二業地だった。

 

 

 

 

最寄り駅は京急蒲田駅。

一応ターミナル駅はJRと東急がある蒲田駅の方だが、そこから東へ700m程離れた場所に京急の駅がある。

ここで京急は横浜や横須賀へ通じる本線と、羽田に向かう羽田線に分岐する。

 

 

 

それにしても駅舎も立派になったものだ。

本線と分岐する形で羽田線が第一京浜を横切っている。

平成13年に高架化工事と同時に駅舎の改築が始まり、24年に高架化が完了。以前訪れた時は既に高架化が進んでいたので別にどうっていうこともなかったが、更にこんなに立派なペデストリアンデッキができていたのには驚いた。

それはともかく、かつては踏切があって第一京浜などは渋滞が絶えなかったのだろうと思う。

あの当時と比べると、この高架化で車の流れが順調になったのは朗報だろう。

 

 

 

駅前には広いバスターミナル。

今回の目的地は第一京浜に沿って南の方だ。

 

 

 

その途中にある大田区産業プラザの奇抜な外観に魂消る。

できたのは平成8年、どうしたらこんな形を思いつくんだろうか?

 

 

 

このとんがり具合、ここから見ると軍艦みたいだ。

 

 

 

ここはもともと青果市場「荏原市場蒲田分場」だったのだが、その機能を大田市場に統合させ、その跡地につくったタテモノだ。

町工場が多い土地柄ゆえにその振興を目的にしたものだと分かるが、それにしてもこの外観にする理由がわからないw

 

話が脱線したが、本題は蒲田の花街だった。

 

 

 

花街は現在の環八通りと第一京浜に囲まれた辺り、地番で言うと南蒲田二丁目にあたる。

そこに二業地開業の許可が下りたのは昭和2年。

周辺に工場が建ち並び、更には松竹蒲田撮影所ができたことで、蒲田は一気に繁華街化し、その背景もあって花街もできた、という経緯だ。

 

 

 

で、さっそく踏み込んでいくと、拍子抜けするぐらいの普通の住宅街。

本当にここが花街だったの?と思ったところに......

 

 

 

威風堂々としたこの佇まい。

これこそがかつて見番だった(とされる)建物に他ならない。

入母屋屋根の立派な佇まい、一見すると銭湯?と見まちごうほど。

あ、余談ながら蒲田やその周辺は銭湯が豊富で、特に天然温泉の「黒湯」を扱ったものが多いですぞ。

 

 

 

蒲田は新興の二業地だったゆえに、『全国花街めぐり』には紹介されていない。

ここで『花街 粋な街』の登場というわけだが、それによると昭和7年に「蒲田新地株式会社」が創立され、芸妓屋24軒、待合21軒、芸妓が総数79名だったという。

 

 

 

駅周辺にもカフェーやバーが続々と開業し、一気に歓楽街化したわけだが、それもこれも松竹撮影所が近くにあったことが大きかった。

大正6年に松竹キネマ撮影所ができ、昭和11年に大船に移転するまでに製作された映画は約1200本に及んだという。

当然、羽振りもよかったわけで、撮影の打ち上げで大いに賑わいを見せたのだろう。

 

 

 

撮影所が大船に移ってしまった後も、周辺が工場地帯だったことが幸いして、下火になる事は無かったようだ。

それどころか、戦時中になると産業戦士の慰安場所としてお上の締め付けもゆるかったらしい。

 

 

 

しかし、工場地帯だった場所柄ゆえに米軍の標的となり、蒲田は戦災に遭い、蒲田新地も焼失する。

戦後は昭和25年に一旦復活するが、昭和40年代に入ると下火になり、いつの間にか花街の火は消えてしまったようだ。

 

 

 

『花街 粋な街』で紹介されている一軒がある。

キャプションには「待合の雰囲気が漂う建物」とあるが......

 

 

 

それよりもこちらの建物の方が花街の名残りではないの?って気がするんですが。

待合から旅館を経て......って感じがしますね。

 

 

 

あとは古い住宅やらアパートやらが残っている感じで、これといった遺構というのは見当たらず。

まあ、早々と花街としての役割を終えてしまったから、仕方がないですが。

 

 

 

細い路地を見ても、普通に下町の風景といった塩梅。

それにしても植木の数が半端ではないね。

 

 

 

これぞトタニズムの究極と言える一軒も。

場所柄か町工場なのだろう。

 

 

 

全体が緑の一軒に思わず脱力。

「誰がアスパラガスじゃ⁉」ってネタ、関西にあったよね?それを思い出しちゃったw

 

 

 

電柱に「二業支」と書かれたプレート。

この辺りが二業地だったことを示す証拠だ。

 

そんな訳で、蒲田新地の探索はここまで......で今回はここで終わりではないんだよね。

最後に、京急蒲田駅の方に戻って、今度は西口にある煤けた街並みに立ち寄って〆とします。

 

 

 

一気に京急蒲田駅の方に戻って西口、「京浜蒲田柳通り」という歓楽街へ。

この周辺は再開発で一気に変貌してしまったが、まだ命脈が尽きたわけではなかった。

 

 

 

「京浜蒲田」というのは、京急蒲田駅の旧駅名で、昭和62年に現在の駅名に替わっている。

ということは、看板もそれ以前からあったのだろうか。

 

 

 

恐らく、戦前にできたカフェーやらバーといった類はこの辺りにあったのだろう。

「柳通り」という名称からして、柳の木も多かったのではないかと。

 

 

 

再開発でできた巨大マンションの下で、肩をすくめながら的な感じでスナックやバーなどが軒を連ねている。

といっても、依然と比べると規模は比べ物にならないが。

 

 

同じ角度で2012年8月に訪れた当時撮影したのがこれ。

まだ再開発前で、正面に巨大マンションがなく、高架化された京急が丸見えになっている。

(以下、★の写真は2012年8月撮影の写真)

 

 

当時は飲み屋に紛れて連れ込み宿もあった。

それらはいずれも再開発の範囲に入ってしまい、見ることができない。

 

 

戦災で焼かれた蒲田は青線の勢いが強かったみたいだ。

大森や蒲田、大井町などをひっくるめると私娼数は1200名はいたようだ(『全国赤線青線地区総覧』昭和29年)。

特に柳通りにその名残りが色濃く見られる。

 

 

 

最後に柳通りの近くに流れる呑川の風景で〆です。

 

ほんの短期間であっという間に変貌した京急蒲田駅周辺。

本当に時の流れは残酷だ。

また数年後、更に残された戦後の風景が......ってなるんだろうか。

 

(訪問 2019年1月、一部2012年8月)