セネカ『怒りについて 他一篇』(岩波文庫)に所収されている「神慮について」。
なぜ善き人が苦しむのか、という「ヨブ記」のようなテーマを扱っている。しかし、最終的に苦しむヨブが報われる「ヨブ記」と異なり、セネカは義人が苦しむのは、神々が義人を鍛え成長させるためだと説く。
「神は善き人を享楽のなかにはおかず、彼を試練し、堅固にし、神意に合わさんとするのである」
「剣闘士は、自分よりも弱い相手と取り組まされることを不名誉と思う。また、危険な目にも会わずに相手に勝つのであれば、それは栄光のない勝利と心得る」

(2025年10月30日)

ジェニファー・マイケル・ヘクト『自殺の思想史 抗って生きるために』(みすず書房)を読んでいる。古代ギリシア・ローマから、アブラハムの宗教や近代文学など、ヨーロッパの様々な自殺に関する言説を追った本で、とても面白い。古代ローマではルクレティア、小カトー、クレオパトラ、セネカなどの自殺が讃えられることがあった。キリスト教も初期は自殺に対しては強く批判的なわけではなく、自殺が殉教として認められることもあったという。しかし、やがてキリスト教が古代ローマ帝国の国教として認められるようになると、自殺者の多さが問題となり、教会も自殺に対する態度を厳格にしていく。ヒッポのアウグスティヌスが自殺を強く糾弾したことも、後世のキリスト教に影響を与えた。
ヘクトは友人の自殺を経験しており、西洋思想史を辿りながら、自殺に反対する理由を探していく。その一つが共同体や家族の中で自殺が連鎖し得るものだということだ。ヘミングウェイの父は自殺し、ヘミングウェイ自身も自殺し、更には彼の孫も自殺した。自殺した詩人シルヴィア・プラスの息子も自殺したという。
文学、社会学、宗教を用いながら自殺に抵抗する、という異色の本である。カミュは『シージュポスの神話』の中で「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである」と書いているが、自殺についての考察は本当に興味深い。自殺が人間の生の本質をあぶり出すかのようだ。

(2025年11月2日)

セネカは小カトーほど幸せな人はいなかったと書いている。小カトーはユリウス・カエサルとの争いに敗れ、カエサルの軍門に下るのを拒み、最後を自殺で終えた。敗北の後の自殺で人生を終える。現代日本人から見ると、いかにも幸せな人生ではない。しかし、セネカからすれば、ストア派的な生き方を貫いたカトーこそが幸せということなのだろう。

(2025年11月6日)

村上宣道『使徒の働き』(いのちのことば社)を読んでいる。1983年に刊行された、ホーリネス教団の牧師による使徒言行録の解説書だが、思った以上に面白い。
イスカリオテのユダの後任の使徒を決めるとき、使徒たちはくじを行い、マティアが選出される。現代の私たちから見ると「選挙とか話し合いとか、他に方法はないのか」と思わされる方法だが、くじによって神の導きを判断するのは当時のユダヤ教社会でよくあったそうだ。
解説を読まないと、古代ユダヤ社会の常識とか、わからない。

(2025年11月11日)

村上宣道『使徒の働き』(いのちのことば社)
使徒言行録はペテロの宣教を描き、サウロの回心の後にもう一度ペテロの宣教を描く。著者によると、これは福音がユダヤ人以外に開かれていく10章「コルネリオの回心」に向けての歴史的過程を描いたのだ、という。10章でのコルネリオの回心、11章でのアンティオキア教会の誕生によって、ナザレのイエスを信じるユダヤ教の一派だった使徒たちがキリスト教徒となっていく。紀元前にはセレウコス朝シリアの中心地であり、現在はトルコに位置するアンティオキア(アンタキヤ)は、キリスト教が始まった場所と言っても過言ではない。ある歴史家は、キリスト教がユダヤ教から独立したのはアンティオキアのイグナチオの時代だと書いていた覚えがあるが、いずれにしろアンティオキアは最初期のキリスト教の中心地だった。
「ステパノの殉教から始まった教会迫害も、ピリポの伝道も、サウロの回心も、そして、ここに記されている地中海沿岸のルダやヨッパにおけるペテロの働きも、みな十章のペテロによるコルネリオに対する伝道につながっている。コルネリオは後で見るように、異邦人の百人隊長である。すなわちルカは、異邦人の世界に向かって福音の門戸が開かれていく歴史的過程をこうとしているのである」

(2025年11月13日)

進化心理学の本で、テロリストの多くは独身男性であり、一夫多妻の国は独身の男性が多いので、テロリズムの危険性が高い、というような話があった。
それを前提としてみると、『レ・ミゼラブル』、シャーロック・ホームズ、ポアロ、ブラウン神父、『男はつらいよ』は、テロリズムに与さない独身男性の話である、とも言える。
テロリストの多くが独身男性、ということと、独身男性が他者や社会のために生きる物語が人口に膾炙してきた、ということは、何らかの関係性があるのだと思う。

(2025年11月26日)

AI関連の本を読んでいると、「AIは人類最後の大きな発明である。これ以後の発明はAIが行う」とか「現在、地球に住めなくなれば人類は滅亡する。人類の滅亡の可能性を減らすため、AIロボットに他の惑星探索をしてもらう」とか「人類が滅亡した時にもAIがあれば人類の知的遺産を残すことができる」とかスケールの大きな話に驚かされる。
AIは間違いなくこれからの人類の歴史に対して良くも悪くも非常に大きなインパクトを与えるものなのだろうなと思う。
(2025年12月25日)

ドストエフスキーの『地下室の手記』を20年ぶりに再読した。ある神父に最も好きな小説を尋ねられたとき、教皇フランシスコは『地下室の手記』を挙げたという。
40歳、遺産でFIREした元役人の苦悩に満ちた独白をひたすら描く小説である。自意識過剰な40歳元役人の小説を、自意識過剰な43歳の元役人(私)が読んだという構図。
あらすじに「黒い実存」とあるが、この黒さをキリストによって生き抜こうとしたのがドストエフスキー(あるいは教皇フランシスコ)で、ただ黒さそのものを信仰なしに肯定しようとしたのがニーチェやアルベール・カミュではないのか。

(2026年1月7日)

ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』においては「人間が理性・知性によって不幸になり、信仰によって救われる」というパターンが複数回用いられているように思う。

『悪霊』においてステパン氏が重んじた西欧自由主義が結果として無神論テロリズムへと帰結した様を描くドストエフスキーの思想性は、理性の限界を論じたバークの保守主義と共通性があるように思う。理性や知性ではなく、民衆に根差した信仰を重んじた彼は、本来的な意味での保守主義的な作家であったのではないか。

(2026年1月9日)

岸見一郎『マルクス・アウレリウス「自省録」を読む』の中で「外にあるものは人を不幸にしない」という章がある。
イエス・キリストは「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコによる福音書」)と言った。柳田神父はこの言葉を、仏教の瞑想にも通じる考えだとしている。
ストア派にもキリスト教にも仏教にも共通するアイデアとして、「外から来る誹謗中傷に人は惑わされない(惑わされるべきではない)」というものがあるのではないか。
(2024年4月29日)