ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』においては「人間が理性・知性によって不幸になり、信仰によって救われる」というパターンが用いられているように思う。
『悪霊』においてステパン氏が重んじた西欧自由主義が結果として無神論テロリズムへと帰結した様を描くドストエフスキーの思想性は、理性の限界を論じたバークの保守主義と共通性があるように思う。理性や知性ではなく、民衆に根差した信仰を重んじた彼は、本来的な意味での保守主義的な作家であったのではないか。
(2026年1月9日)
ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』においては「人間が理性・知性によって不幸になり、信仰によって救われる」というパターンが用いられているように思う。
『悪霊』においてステパン氏が重んじた西欧自由主義が結果として無神論テロリズムへと帰結した様を描くドストエフスキーの思想性は、理性の限界を論じたバークの保守主義と共通性があるように思う。理性や知性ではなく、民衆に根差した信仰を重んじた彼は、本来的な意味での保守主義的な作家であったのではないか。
(2026年1月9日)
「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする……人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している」
ドストエフスキーの日記の言葉。「他人を自分のように愛する」という理想と、そうはいかない人間の現実を見据えたからこそ、現代でも彼の小説は読まれているのだろう。
(2026年1月20日)
デヴィッド・イーグルマンの本にこんなことが書いてあった。
メル・ギブソンは酔って反ユダヤ主義の発言をし、その後謝罪した。彼にはユダヤ人の友人もいて、普段はユダヤ人に対して差別的な言動はなかった。
どちらが本当のメル・ギブソンか、などと考えるのは誤りだ。人間の脳には統一的な自由意思などなく、どちらもがメル・ギブソンなのだ。
なるほどなと思う。僧侶の小池龍之介が「一人の人間の中にたくさんのおばさんがいる」というような表現をしていたが、これは科学的なのかも。
(2026年1月26日)
2011年の秋、午後休をとって、武蔵小杉の職場から上野の西洋美術館に行き、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの版画展を見に行った。旧約聖書「ヨブ記」に関する版画が何枚も飾られており、ヨブ記の物語を思い起こしながら鑑賞をした。見終わった後、妙に満たされた気分になったが、神がヨブ記の美術を通して、困難の背後にある救 済について、私に語りかけてくれたのかもしれない。
(2026年1月28日)
我々は「子孫を残した人々の子孫」であり「子孫を残さなかった人々の子孫」ではないので、幸せになることよりも、生き残ることや子供を残すことを、意識的・無意識的に優先しやすいのではないか。自分が不幸になっても誰かを殺しても、生き残る確率を上げ、子供を残す確率を上げる。逆に1人で幸せに生きられる人たちは子孫を残しにくいのだろう。
この進化心理学的な傾向性が人類の不幸の半分くらいを作り出しているのではないか、と思う。
(2026年2月4日)
セネカ『怒りについて 他一篇』(岩波文庫)に所収されている「神慮について」。
なぜ善き人が苦しむのか、という「ヨブ記」のようなテーマを扱っている。しかし、最終的に苦しむヨブが報われる「ヨブ記」と異なり、セネカは義人が苦しむのは、神々が義人を鍛え成長させるためだと説く。
「神は善き人を享楽のなかにはおかず、彼を試練し、堅固にし、神意に合わさんとするのである」
「剣闘士は、自分よりも弱い相手と取り組まされることを不名誉と思う。また、危険な目にも会わずに相手に勝つのであれば、それは栄光のない勝利と心得る」
(2025年10月30日)
ジェニファー・マイケル・ヘクト『自殺の思想史 抗って生きるために』(みすず書房)を読んでいる。古代ギリシア・ローマから、アブラハムの宗教や近代文学など、ヨーロッパの様々な自殺に関する言説を追った本で、とても面白い。古代ローマではルクレティア、小カトー、クレオパトラ、セネカなどの自殺が讃えられることがあった。キリスト教も初期は自殺に対しては強く批判的なわけではなく、自殺が殉教として認められることもあったという。しかし、やがてキリスト教が古代ローマ帝国の国教として認められるようになると、自殺者の多さが問題となり、教会も自殺に対する態度を厳格にしていく。ヒッポのアウグスティヌスが自殺を強く糾弾したことも、後世のキリスト教に影響を与えた。
ヘクトは友人の自殺を経験しており、西洋思想史を辿りながら、自殺に反対する理由を探していく。その一つが共同体や家族の中で自殺が連鎖し得るものだということだ。ヘミングウェイの父は自殺し、ヘミングウェイ自身も自殺し、更には彼の孫も自殺した。自殺した詩人シルヴィア・プラスの息子も自殺したという。
文学、社会学、宗教を用いながら自殺に抵抗する、という異色の本である。カミュは『シージュポスの神話』の中で「真に哲学的な問題は一つしかない。それ は自殺についてである」と書いているが、自殺についての考察は本当に興味深い。自殺が人間の生の本質をあぶり出すかのようだ。
(2025年11月2日)
セネカは小カトーほど幸せな人はいなかったと書いている。小カトーはユリウス・カエサルとの争いに敗れ、カエサルの軍門に下るのを拒み、最後を自殺で終えた。敗北の後の自殺で人生を終える。現代日本人から見ると、いかにも幸せな人生ではない。しかし、セネカからすれば、ストア派的な生き方を貫いたカトーこそが幸せということなのだろう。
(2025年11月6日)
村上宣道『使徒の働き』(いのちのことば社)を読んでいる。1983年に刊行された、ホーリネス教団の牧師による使徒言行録の解説書だが、思った以上に面白い。
イスカリオテのユダの後任の使徒を決めるとき、使徒たちはくじを行い、マティアが選出される。現代の私たちから見ると「選挙とか話し合いとか、他に方法はないのか」と思わされる方法だが、くじによって神の導きを判断するのは当時のユダヤ教社会でよくあったそうだ。
解説を読まないと、古代ユダヤ社会の常識とか、わからない。
(2025年11月11日)
村上宣道『使徒の働き』(いのちのことば社)
使徒言行録はペテロの宣教を描き、サウロの回心の後にもう一度ペテロの宣教を描く。著者によると、これは福音がユダヤ人以外に開かれていく10章「コルネリオの回心」に向けての歴史的過程を描いたのだ、という。10章でのコルネリオの回心、11章でのアンティオキア教会の誕生によって、ナザレのイエスを信じるユダヤ教の一派だった使徒たちがキリスト教徒となっていく。紀元前にはセレウコス朝シリアの中心地であり、現在はトルコに位置するアンティオキア(アンタキヤ)は、キリスト教が始まった場所と言っても過言ではない。ある歴史家は、キリスト教がユダヤ教から独立したのはアンティオキアのイグナチオの時代だと書いていた覚えがあるが、いずれにしろアンティオキアは最初期のキリスト教の中心地だった。
「ステパノの殉教から始まった教会迫害も、ピリポの伝道も、サウロの回心も、そして、ここに記されている地中海沿岸のルダやヨッパにおけるペテロの働きも、みな十章のペテロによるコルネリオに対する伝道につながっている。コルネリオは後で見るように、異邦人の百人隊長である。すなわちルカは、異邦人の世界に向かって福音の門戸が開かれていく歴史的過程をこうとしているのである」
(2025年11月13日)