こんばんは。
お酒を頂きながら、映画「姑獲鳥(うぶめ)の夏」を見ていました。
この映画、酷評されているんですよね。
そんなに悪い作品かなぁ。
俺は良くできていると思うのだけど。
原作は京極夏彦氏。
監督は、「ウルトラQ」や「帝都物語」の実相寺昭雄氏。
京極夏彦氏に関しては、説明は不要ですかね。
元デザイナーで、持ち込みで採用されたのがこの「姑獲鳥の夏」だったはずです。
漫画家の水木しげる氏をリスペクトしているようで、この映画の中でも水木しげる氏を彷彿とさせる傷痍軍人役を務めている。(スタッフロールでは傷痍軍人(水木しげる)とある)
京極氏はこの映画の監督であった実相寺氏の熱烈なファンであったようで、
鬼籍に入らなければ次回作「魍魎(もうりょう)の匣(はこ)」も多分、実相寺氏が手掛けていた可能性は高かったと思う。
この作品冒頭で、「妊婦が20か月も妊娠したままでいられると思うかい?」という問いかけがされる。
物語はそこから始まるのだ。
原作は2、3度読み直して、映画も3、4度見返した。
この作中で言われている呪いをかけるとは、その人が密かに気にしている、人に最も言われたくない言葉を言われると言うことだと解釈している。
例えば、
あ、例えばですよ、それに当てはまる人がいても、それは偶然で、俺はこんなことを思っちゃいません。
例えば、大きなほくろがある人がいたとする。
その人がほくろのことを気にしていたとする。
それを人から言われたとき、その人はどう思うか。
ずっと後々まで気にし続けてしまうだろう。
そういうことをこの作品の中では、呪いと言うのではないのかな。
もっと広げてみれば、周りからいじめにあう、というのも呪いの一種なんじゃないかと思う。
その他には、こんなことも書かれている。
物事はすべて脳で認識されている、と。
だから、本当か嘘かと言うのは、客観的な記録でしか判断できないと。
しかし、その記録も、信じるか信じないかはその人自身の判断であると。
つまり、人は自分の見たいものしか見ず、信じたいことしか信じないのである、と俺は解釈した。
それは、人の数だけ世界があり、ある部分で共感することがあっても、すべてで共感することはない、ということ。
宗教などがいい例かもしれない。
基本的な教えは大体一緒でも、細かいところが違う。
それが宗派となって分かれていく。
作中の探偵役である拝み屋、「京極堂」が行う憑き物落としとは、その人が妄信している出来事を、その人が分かる言葉、その人が納得する方法で執着から解き放つことだと、俺は解釈。
また作中で、「知らない方が良い事もある」と言うセリフが出てくる。
間違った認識をしていても、周りに被害がないならそれでいいではないか、と言う解釈と、
いずれはすべて破綻して、自分が嫌な役目をしなくても同じ結果になる、と言う解釈があると思われる。
メンタルの先生から聞いた事だが、
カウンセリングを希望する患者さんは多いらしい。
でも、そうすると、思い出したくないことまで思い出してしまう、と。
それが病の原因になっているのなら、カウンセリングで悪化することもあるのかな?
その話を思い出した。
この映画が酷評されている要因については、
多分、原作を読んでそれぞれの読者が想像した京極堂などの登場人物とのイメージの乖離や、期待が大きすぎた感じは否めない。
例えば、原作に「赤い花がある」という文があるとする。
ここで「赤い花がある」という文を読んで何を想像するか。
赤い花と言っても色々ありますよね。
「ある」と言っても、花だけがそこに置いてあるのか、あるいは一輪挿しに差してあるのか、はたまた、赤い花が束で大きな花瓶に飾られているのか。
どのように想像するかは読み手の数だけあると思います。
この映画は、監督の実相寺氏が想像したものであって、当然、それは他の読み手とは違います。
そう言った細かな相違が、作品全体としてみると大きな乖離となって、見た人は「これじゃない」と思うのでしょう。
でも、改めて映画を見た時に、原作の重要な部分はすべて詰め込まれていると思います。
良く2時間の枠にこれだけまとめて作ったと思いますよ。
だって、今でこそ文庫版で分冊化されていますが、
出た当時は、新書版で厚さは弁当箱ほどもあったのですよ。(^_^;)
まぁ、映画だけでは理解するのはかなり困難だと思いますが。
役者さんの演技も良いと思うのです。
1点難を言えば、「木場修太郎」はもう少し何とかならなかったかな、と。(笑
タイトルにあるように、この作品の季節も「夏」です。