こんばんは。

 

 

 

 

自室の隣がダイニングキッチンで、良くそこで親父がテレビを見ている。

 

今日も今日とて俺は酒を呑んでいた。

 

酒は冷やした方が美味いので、冷蔵庫に入れてある。

 

1本飲み干したら、次の1本を取りに行くのである。

 

その時に、テレビに荒俣先生が映っていた。

 

荒俣宏先生。

 

俺が尊敬してやまない人の一人だ。

 

元々は、この人のようになりたいと思って、色んな知識を仕入れたようなもの。

 

荒俣先生を知らない人へ。

 

荒俣先生は、小説「帝都物語」を執筆した作家です。

 

その他にも著書多数。

 

なにより、その博覧強記っぷりがハンパない。

 

テレビにも時々出るが、聞かれて知らないと答えることが本当にまれだ。

 

また、それだけの知識を有しているにもかかわらず、決して出しゃばらない。

 

本当に素晴らしい人物だと思う。

 

 

 

 

 

 

荒俣先生を見て、

 

最近の自分のブログを思い返してみた。

 

赤面の至りである。

 

でも、いくら荒俣先生のようになりたくても、それは無理な相談なのだ。

 

俺は荒俣先生のように温厚な性格とは言えないし、また、知性だって劣っている。

 

荒俣先生と同じ知識を有しているはずもなく、ただ憧れているだけの存在に過ぎない。

 

知識と言うのはそのままただ覚えるだけでは意味がないと思っています。

 

自分でその知識を加工して、自分なりに昇華することで本当の意味で自分の物になると思っている。

 

荒俣先生がどのように知識を昇華させているかはわかりませんが、

 

その辺は自分で考えて、自分なりに昇華していくしかないと思っています。

 

知識をただ持っているだけでは、ただのクイズ王と変わりませんものね。

 

それをどのように生かしていくのかが、その人自身の存在価値だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

ゲーム「グリザイア クロノスリベリオン」、プレイしています。

 

めっちゃ面白いです。

 

それに勉強になる。

 

思うのですが、

 

学ぶ気があるなら、どんなものからでも学べます。

 

くだらない漫画からでも。

 

学ぶ気がないなら、どんなに良くできた教材からでも、何も学ぶことはできない。

 

推理小説で、多くの人が言うのは「物語だから」とか「ご都合主義だから」とか「トリックが強引だから」とか言うのですが、

 

でもね、

 

同じ人間の作者が考えるのですから、実際にそのような事件が起こる可能性もないわけじゃないんです。

 

探偵役も人間なら、犯人役も人間ですから。

 

そういったものでも、こういうこともあるのか、と学べる者と、

 

所詮作りものだから、と歯牙にもかけない者と、

 

数年後、どちらがどれだけ成長するでしょう。

 

例えたまたまであったとしても、そう言うこともあるのだと、記憶しておくことも無駄ではないでしょう。

 

可能性の枝葉を作り上げるというか。

 

何か問題が起きた時に、1つの可能性しか思いつかない人と、いくつもの可能性を思いつく人、どちらが問題解決に近いでしょうか、って話です。

 

そうは言っても、難しい問題ですよね。(^_^;)