こんばんは。
bgmです。
大河ドラマ「どうする家康」始まりました。
○◦○ー○が入っているのは業腹ですが(ファンの方申し訳ない)、家康の歴史は改めて見てみたかった。
どうしても信長との比較でアホにされがちな今川義元公。
でも、すごい人なんですよ。
義元のオヤジは氏親(うじちか)。
義元は氏親の三男として生まれました。
当然、上に2人の兄がいたので仏門に入れられ、そこで親戚筋の太原雪斎(たいげんせっさい)と一緒に寺で学びました。
この当時学校のようなものはなく、寺子屋ができたのが江戸時代だったことを考えると、お寺は唯一学問を学べる場所でした。
兄の命令で戻っては来たものの、依然として継承権はありませんでした。
しかし、2人の兄が同日に亡くなり、義元にお鉢が回ってきたのです。
まぁ、お家騒動があったとか聞きますが、詳しくは知りません。
とにもかくにも義元は当主になったのです。
義元は領内に善政を敷き、領民からは慕われていたようです。
また、関東信州では、北条氏、武田氏と三国同盟を結び、上洛の機会をうかがっていました。
義元は「東海一の弓取り」と呼ばれ、文武両道に秀でた武将でした。
さらに、今川氏は将軍の足利氏の支流で、縁続きでした。
領内では京の文化も取り入れ、城下は栄えていたようです。
で、なぜ松平氏(徳川氏)が厳しい状況だったかと言うと、地理的に今川氏と織田氏の紛争地帯だったからです。
三河の地には他にも豪族がいて、水野家がありました。
水野家は水野忠政(ただまさ)の時代に娘を、松平広忠(ひろただ)に嫁がせた。
広忠は家康の父で、その時嫁いだ娘が名を「於大(おだい)」と言い、産まれた子が家康である。
忠政の家督を継いだ元信(於大の兄)が織田方についたため、於大は離縁させられ実家に戻った。
家康はまだ赤子であったと伝えられる。
広忠が病弱で頼りなかったため、家臣の期待を一身に受けたのが家康だったのだ。
話を戻すと、義元は優れた武将でした。
近年、色んな研究や説が出ていますが、信長は義元と同じ兵数を持っていても奇襲を選択したのではないでしょうか。
多分、同数の兵力をもって正々堂々と戦っていたら、義元が勝ったんじゃないかな。
信長もそれが分かっていたからこその奇襲であったと、俺は思っています。
まぁ、兵数が同数だったら、とかこんな想像は無意味なんですけどね。
相手よりも多くの兵数を揃えられる、自分の有利な条件を整える、と言うのも実力なので。
で、その後に活躍した信長がすごい、っていう書き方をしないと物語が進まないので、義元は必要以上に下に書かれるわけですね。
今の人たちからすれば、「よしもと~?」って言われてしまいますが、人を見下す人は多分誰にも勝てない。
そう思いますね。(個人の感想です)(^_^;)
いやぁ、そろそろ酒を控えようと思ってたんだけど、なかなかどうして。(笑
やめられませんな。(^_^;)
この頃、酒を呑むと咳が出てきて困る。
酒を呑むと血管が広がって血流が良くなり、咳も酷くなります。
気管支が弱くてね、学生時代気管支喘息になって学校を1か月休んだこともあります。
夏でも咳が出るんですよ。
まぁ、口開けて寝てるのもあるんですが。(笑
血管が広がると咳が酷くなるので、じゃあ血管を収縮させることができれば咳が収まるんじゃない?って開発されたのが、古い咳止め薬です。
でも、この古いタイプの咳止め薬には、○○に近い成分が入っていて、依存性があるものもあります。
長くは使用せずに、長引く場合は診てもらいましょう。
将棋、王将戦、第一局は藤井王将が勝利しました。
でも、これと言った悪手が無かった羽生九段は、少しびっくりしていた感じですね。
どうして負けたのかと。
普通は負けた側に悪手などがあって負けるのですが、相手に悪手が無くても勝ってしまうのが藤井王将。
とんでもないな。(^_^;)