※まことにすんません。一部記憶違いがありました。
「顰に倣う」の故事は、同じく古代中国史に名を遺す美女「西施(せいし)」のものでした。こちらに関しましては、次の記事でご紹介します。
間違っていた部分は、打消し線で消しましたので、ご了承ください。m(__)m
こんばんは。
BGMです。
映画「キングダム」を見ました。
面白かった。
原作とはちょっと違ってたけど、それも良し。
そもそも、原作は長く続けることが前提になっていて、映画は約2時間程度で起承転結を盛り込まなくてはならない。
1つの作品としてまとめるには、原作を改変することも必要になってくる。
媒体が違うのだから、当然編集も違って当然だと思う。
で、映画内で出てきた穆公(ぼくこう)について。
穆公とは、秦の9代目の王である。
古代中国の最高位は、王であり、その上に帝(みかど)がいた。(奇妙なことに始皇帝前は、各国の長は王であり、その上に帝がいた。中国の伝説の時代に、三皇(さんこう)、五帝(ごてい)の時代があった、その皇(こう)と帝(てい)を合わせたのが中国の皇帝である。その上で、始めての皇帝と言うことで始皇帝と名乗ったのである。)
古代中国の王朝は、夏(か)、殷(いん、商(しょう)とも)、周(しゅう)、秦(しん)、漢(かん)、その後三国志の時代へ。
このうち、夏はあったとされる王朝で、まだ断定はされていない。
殷は暴君で有名な紂王(ちゅうおう)の時代である。
紂王は酒池肉林を行った暴君である。
暴君と言うと頭の悪い君主を思い浮かべるが、そうではない。
紂王は、すこぶる頭が切れ、力も怪力、その上イケメンであったと伝えられる。
神も仏もいないものか。(笑
その所為で、周りも強く言えなかったのだ。
紂王の暴君ぶりをさらに加速させたのが、傾国の美女「妲己(だっき)」である。
天井から肉をぶら下げ、酒を池のように湛(たた)えさせた。
その様は、「酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林の語源)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。」とされる。
紂王も愛姫であった妲己の言うことにはすべて従っていた。
酒池肉林も、一説によると、妲己の発案と言うことが言われている。
頭もよく、力も強い紂王。
それまで逆らえずにいた臣下達も、さすがに考える。
そして、周の武王(ぶおう)が起つのだ。
周の武王は、臣下に忠臣「周公旦(しゅうこうたん)」、名軍師「太公望(たいこうぼう、本名:呂尚(りょしょう)」を従え、紂王を討ち、周王朝を築きます。
しかし、歴史は繰り返す。
周も長い期間を経ると、幽王(ゆうおう)と言う暗君(あんくん、愚かな王の意味)が登場する。
更に、同時期に、褒姒(ほうじ)と言う傾国の美女も登場する。
褒姒は絶世の美女であったが、いつも眉を顰(ひそ)め、まったく笑うことが無かった。
褒姒を妾にした幽王は、何とか褒姒を笑わせようとしたが、すべて失敗に終わった。
この頃の女性は褒姒に倣(なら)い、美女は笑わぬものだ、と言うことで、皆同じように眉を顰めた。
このことから、「顰に倣う(ひそみにならう)」と言う故事が産まれた。(意味は物事の本質をとらえず、うわべだけをマネする例え)
幽王は知恵を振り絞って、何とか褒姒を笑わせようとする。
そして思いついたのが、緊急の狼煙(のろし)を挙げて、兵たちを集める作戦だ。
慌てて部屋に入ってくる兵士たちを見て、褒姒はついに笑った。
幽王は大いに喜び、何回も同じことをした。
次第に兵たちも真に受け無くなり、本当に緊急の狼煙を上げた時には、誰も駆けつけなかった。
こうして周は力を失った。
その周王朝が衰え始めて、春秋戦国時代が始まるのです。
春秋戦国時代と言いましたが、前半期を春秋時代、後半期を戦国時代と言います。
前半期の春秋時代に名を馳せたのが、秦の穆公です。
古代中国で、1番目の覇者は斉(せい)の桓公(かんこう)、2番目は晋(しん)の重耳(ちょうじ)です。
この重耳を晋の王にしたのが、穆公です。
穆公は、最初、重耳の弟の恵公(けいこう)を晋の王に据えましたが、取り決めを守らなかったりして激怒し、19年間流浪していた公子「重耳」を晋の王に据えました。
重耳についてはまた、改めて記事を書きたいと思います。
重耳は王について、中華で2番目の覇者となりました。
しかし、その時には既に齢60を超えていました。
その在位期間は短く、重耳亡き後、穆公は晋に攻め込みます。
その後、3、4年で穆公は没します。
穆公の政権では、名宰相「百里奚(ひゃくりけい)」などが居ました。
百里奚も秦国の人ではありませんでしたが、秦国は度々諸国から名宰相を登用しています。
穆公は、仁徳の人として、世に知られました。
晋国は、その後、魏(ぎ)、趙(ちょう)、韓(かん)の国に分裂します。
で、キングダムの世界では、その分裂した状態ですね。
春秋時代では、かなり多くの国が乱立していました。
しかし、後期の戦国時代では、大体7国に絞られたのです。
この時代を、前半、後半、合わせて、春秋戦国時代と言います。