こんばんは。
今日、飲みながらNHK大河ドラマ「太平記」46話、47話を見ました。
足利尊氏が、散々自分に迷惑をかけた高師直(こうのもろなお)、高師泰(こうのもろやす)兄弟とともに、運命を共にすると語りました。
野心に満ちていた高師直は、改心し、尊氏に忠誠を誓います。
だが、高(こうの)兄弟は暗殺されてしまいます。
それだけ恨みを買っていたわけですが、そんな相手と運命を共にすると語った尊氏の器の大きさが、表現された出来事です。
古くは中国で、漢の高祖「劉邦(りゅうほう)」などが、これに近い形でしょうか。
部下の出自には一切こだわらず、何度裏切られてもそれを許した度量は、古今東西で屈指に入るでしょう。
また、日本では有名なところで徳川家康がこれに当たります。
幼き頃に、今川へ人質に出されるところ、領内の豪族の手によってさらわれ、織田家に連れられた過去を持ち、松平(徳川の旧姓)を裏切って、後に帰参した部下も許した、徳川家康。
これらこそが、王者の器ともいうべきものだ。
他人を許せないものが、自分を許せるのか。
自分を許せないものが、他者を追及するのか。
みんながみんな、こんな度量を備えなければいけないわけではない。
備えている人が、非凡だと言っているだけで。
広く見るに、現代にはそういう人は見当たらない。
みんな、細かいことを追及するのに熱心で、寛容さを備えているリーダーは少ない。
徳川家康の遺訓を学べば、少しはマシになるのだろうか。
以下、別サイトのコピペ。(徳川家康遺訓の訳)
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。