日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)

  共同体優先の日本人の愚かさ

 「外国人の目に映る限り、たいていの日本人が、日々の生活の中で共同体の利害を個人の欲望や利害よりも優先させるという日本社会の要求を、おとなしく受け入れているように見える。ところがこの顕著な集団志向は、実は300年以上前の為政者によって作為的に社会に組み込まれた政治的所産なのである。
 それは今日でも、政治的方便であることは変わりはなく、日本人はそれに従うかどうかを、ほとんどあるいはまったくできない。このような状況のもとで、一個人としての日本人は、自己の知的向上心や精神的成長が共同体の意思によって抑えられるのを、しかたがないこととして受け入れている。」

不服従の原理を持たない日本人の精神性を、実に正確に読み取られている。自分個人の意思や、自分個人の思想あるいは考えを尊重し、それは何よりも最優先されるものだという個人主義の思想が定着していない。周囲を見回して、自分だけが目立たないようにしていれば安心といった風潮がある。また人と同じことをしていれば、まず間違いはないと有力者に追随する考え方が、一般化している社会であるともいえる。それは、裏を返せば共同体の全体の命令には暗黙にした鍵う。あるいは、政治権力には逆らわないで、長いものには巻かれるという習慣が根付いている。
  ところが外国では「百万人といえども我行かん。」と自分が正しいと確信していることならば、全員がYESといったところで、たった一人であろうとも自分はNOという。権力がその考えを変えるように迫り、たとえ命を奪おうと強要しても、自分の信念を曲げないという個人の意思を尊重する価値観が根づいている。ここの違いを指摘されている。
 私たちは、今安倍独裁政権を前にして、権力に必要以上に脅え、新聞メディアはあっさりと報道の中立性や、大衆のために正しい報道をするという報道の核となる倫理をかなぐり捨てて、安倍政権よりの都合の佳い報道のみを伝える自主規制を率先して行っている。
こうした例は現在、 枚挙にいとまがない。組織優先の全体への埋没思想が、たやすく全体主義や国粋主義、あるいは軍国主義を復活させてしまう。
 そうした共同体最優先の考え方は、自分の意思を殺すことと引き換えに成立します。 しかし、第2次世界戦争を経験し、あるいは社会主義国家思想などを経験し、全体の共同性の優先思想が、 いかに個人の自由を奪う原因となってしまうかを私たちは学んでいます。つまり、これからの思想は、滅私奉公ではないのです。個人の命を含めた尊厳が保たれる社会をより優れた人間のあり方だと考える思想を持つことが大切なことです。個人の自由を最優先にできる社会を目指すべきなのです。個人を尊重する自由な社会こそ、価値ある人間社会です。これを奪おうとする権力には、本気で戦って守るべきです。