高校時代といえば、わたしは全然勉強できなくて、グレる勇気もなく、サイクリング同好会の部長というだけで、原付を抜くことが生き甲斐で気まぐれに自転車暴走しているような阿呆だった。

 

 同級生のH君は剣道部の部長で、女子にモテていたが、どこか影のある奴だった。今もやってるのか知らないが、当時の高校名物は2月に50㎞走破する耐寒夜行登山で、一応任意参加となっていたが、体育会系で参加しないのは恥ずかしい。

 

 H君はその実行委員をしていて、下見に行くために、わたしに予備の自転車があったら貸してくれという。貸すだけでは面白くないので、二人で一緒に出掛けた。未舗装の山中では自転車を押したり担いだりして行った。今より十倍は体力があったので、全然疲れなかったが、腹が減った。

 

 わたしの家でインスタントラーメンを食べながら話をした。二人とも人前ではウケ狙いのしょうもない話しかしないが、二人きりで飯を食っている時なんかは、真面目になる。H君も勉強はさっぱりだった。

 

「受験なんて嫌やな」「そうやな」

 

「こんなアホな俺らでも笑って生きられる世の中にしたいな」「そうやな」

 

「俺、教師になってアホなやつらの面倒見るわ」「ほんなら、俺もそっち方面やろうかな」

 

「そやけど、多分俺ら大学落ちるで」「多分やなくて、絶対落ちるわ」

 

「二人とも行ける大学無かったらどうする?」「日本人辞めよか」

 

「牧場したら毎日肉食えるで」「牧場いうたら南米や。アルゼンチンでも行くか」

 

「ええな。毎日ステーキ食い放題、ワイン飲み放題や」

 

 アホやったはずのH君は、それからアホみたいに勉強して教育大学に入学した。わたしも大学で教育学を専攻した。

 

 わたしの進路が内定して嬉しがっていた時、高校の友人から、H君が自死したことを聞いた。大学最後のアメフトの試合で大怪我をして、教員採用試験を受けられなかったのが原因じゃないかという話だった。

 

 本当の理由など誰にも分からないが、わたしは涙が止まらなかった。家に帰る電車の中でもずっと泣いていた。H君と具体的な約束を交わしたわけではない。だけど、「そっち方面」で「アホな奴らの面倒を見る」ということを、勝手に彼との約束にして、ずっと働いてきた。


    H君の家庭事情は知らないが、高校の時から妹と2人暮らしだった話は、後に聞いた。

 

 この話はあちこちでしている気がするので、またかと思われた方はごめんなさい。

 

 今朝の毎日新聞で、「無料塾」のスタッフがジレンマに悩んでいるという記事を読んだのが、この話を蒸し返すきっかけとなった。


 おおたとしまさによれば、塾に通うカネの無い子が学歴競争のリングに立つために無料で勉強を教えるのだが、それは結局競争を激化させるだけで、「敗者」が無くなることは決してない。

 

 それよりもみんな得意なことを活かせるように、苦手なことをカバーし合うような社会の仕組みづくりをするべきではないかという。(現実にはなかなか難しいとは思うが。)

 

 高度経済成長の時代ならば、競争が社会全体を活性化させていた面はあっただろう。でも今のような停滞もしくは衰退してゆく日本においては、できれば競争のリングには上りたくないし、勝つためには自分が努力するより他人を蹴落とした方が早いと考えてしまう。

 

 心身をすり減らして競争に勝ったところで、それが本当の幸せなのだろうか。(過労死の悲劇とか・・・)

    誰もが安らぎとか幸福感を得にくい社会になってしまっている。

 

 長男は、親や周囲から刷り込まれた学歴至上主義の価値観に抗いきれず、不安を募らせたまま逝った。

 次男は、社会体制から外れることで自分を守ろうとして、山奥に逃げ込んだ。山はまだ雪催いらしい。

 

 明日は墓参りに行ってきます。

 

 写真は、2日前、冷たい雨の中で、桜を見に行ったときのもの。

    写真は晴れた瞬間のものだが、この30分前も、30分後も、本降りの雨だった。


 わすれな草の苗も売っていた。

 同世代では親の介護が大変だとか、大変だったという話が多い。

 


勿忘草介護果たせば庭広し        れすと




    わたしの母が亡くなるふた月ほど前の句


勿忘草友の名忘れ病みにける