今更になって夏から冬への衣替えという名目で、長男と一緒に寝ていた寝室を片付けた。45リットルのゴミ袋3つ分を廃棄した。メルカリとかフリマに出せば、小銭くらいにはなるかもしれないが、そういうことはしたことがない。
遺族ならみなさん経験するだろうが、もう二度と着ないだろう(自分の)洋服でも、思い出が次々蘇って辛くなるので、なかなか手放せない。断捨離の断は、断腸の断だなと思う。辛さも生きている実感のひとつである。筋トレとか、そういう方面ではM気質が得だと思うが、遺族は生き残っていることだけで辛さを満喫できる。
熱力学第二法則は宇宙の真理のひとつであり、エントロピーは「独立系において」増大し続ける。
(熱力学第一法則は、エネルギー保存則。)
覆水盆に返らず。散らかった部屋は勝手に片付いたりしないし、ゴミは捨てないと増え続ける。
なぜ「独立系において」と断りを入れたかと言えば、亡き子とつながっている分については、エネルギーの拡散が抑えられるのではないかと思ったから。(寒い部屋では熱いコーヒーは冷めやすいが、サウナの中では冷めにくい。)
補足すると、エントロピーが増大するにつれ、活用できるエネルギーの質はどんどん落ちていく。(量は同じ。走ったら運動エネルギーの一部が熱に変わって体があたたまるが、身体をいくらあたためても走るエネルギーには変換できない。)
創造的行為は反エントロピー的で、膨大なエネルギーを必要とする。
情報は熱力学第二法則に従う – WirelessWire News
俳句を詠むことなど、その最たるもので、十七音の一句を作るために、ものすごい量の情報を五感から仕入れ、それを頭の中の知識や記憶、数値化できない感性を総動員して、折角集めた情報のほとんどを捨て、人の感性に訴えるものを創り上げる。
どこかの歌人がAI短歌の可能性を肯定的に述べていたが(人間の作った短歌の真似がかなりの精度でできるようになるだろうという趣旨)、俳句は(今のところ)生成AIではおーいお茶の新俳句レベルにさえ届かない。(普段から俳句を作っていると、短歌は文字数が多すぎてとても作りづらい。)
それくらい難しい文芸だが、言い換えれば、俳句を作ることで、電子機器にはとうてい真似できない価値を創造しているという意味で、自己肯定感の向上をはかることができる。(この説、論文にまとめてどこかに発表したいくらいである。)
蛇足だが、最近おーいお茶のCMを見た時に、出演タレントが(美人とかそういう話ではなくて)なんだか変だなと違和感を覚えた。
後で、日本のテレビ業界で初めてAIタレントを起用したCMだというニュースを見て、なるほどそうだったのかと合点した。
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じつはここからが本題である。
エントロピーの法則が、「この世は実は虚像であり、シミュレーションの一つに過ぎない」という学説を導くという最近のニュースを見て、かなりびっくりした。
情報力学第2法則はこの世界がシミュレーションであることを示している - ナゾロジー (nazology.net)
この世を離れた人が、人格や記憶を保ったまま、どこか「他界」で元気に過ごしているという考えは昔からあるが、それを否定する証拠もないので、その真偽性を議論する意味はない。世界の事象のすべては、宇宙のどこかで全部記録され保存されているという説も昔からある。
量子力学の一端で、「この世は三次元に投影された虚像である」という説について、シミュレーション仮説はオックスフォード大学ニック・ボストロム哲学教授が提唱しているほか、物理学の世界でもホログラフィー原理が議論されている。
ここまでは、「あっ、そう。」で終わる話だが、これとエントロピーの法則との結びつきは考えたことが無かった。
情報力学の第二法則をザックリと言い換えると「宇宙では時間経過とともに情報が圧縮されていく傾向にある」らしい。
宇宙の総エントロピー=物理エントロピー+情報エントロピー
ならば、物理エントロピーが増大すれば、情報エントロピーは減少するかもしくは、内容を保とうとすれば、圧縮して小さくならざるを得ない。
そうすると、超ひも理論で(確か)6次元以降の次元は、極小サイズにならないと存在できないという話が、ケルトの地を追われた神々が、目に見えない小ささになってチル・ナ・ノグと呼ぶ極楽に移住した話にリンクするし、
以前から疑問だった「ヒトは種として誕生した時代から、数えきれないくらい死んでいるのに、ひとりひとりの魂がそのまま残っていったら、あの世がパンクするんじゃないか、容量無限のクラウドだから良いのか? しかしそんなに広大なら、あの世で再会なんて探せないんじゃないのか? 生まれ変わりって、ようするに魂のリサイクルじゃないか、その過程で魂のまじりあいとか起きるんじゃないか・・・」などという、わたしの以前からの考察が進むヒントになるかもしれない。
まだ知ったばかりの話で、なぜ情報エントロピーの話が、「この世は仮の棲処」説につながるのか、整理できていないのだが、暇があれば(基本ヒマなので)考えてみたい。
わが子が弱かったから、適応できなかったから、この世に必要とされなかったから・・・などと考えて落ち込む遺族(わたしがその代表)の心に、一筋の光をともせたら良いが、そう単純な話でもなさそうではある。
シミュレーションの主が神だとしたら、何かを我々に期待してやっているはず。仮に実験のコマだとしても、その枠内での自由はあるはず。考え出すと止まらない。
(書きかけにつき、随時加筆するかも・・・)
とりあえず、今日の時点で考えたこと。
「情報が時間の経過と共に圧縮されて(最低限)残るということは、思い出が次第に純化されて、自分にとって必要な記憶だけ残るのと同じで、生前の魂も次第に枝葉が落ちて、本質だけ残るのでは?」
では、その本質にアクセスするには・・・
で、旧想ひ出歳時記の最終盤の考察へと戻ったりする。
シミュレーションならひとつだけじゃなくて、パラレルワールドとして無限のパターンがあるのでは?
なので、わが子が元気に生きてる世界も(交流困難だけど)絶対あるはず・・・。
写真は庭のルリマツリ。結構しぶとく咲き続けている。
単為生殖の話題にも触れたかったが、話が長くなって支離滅裂になるので、またいずれ。