論理的に説明しきれないことに関して、人は物語をつむぐことで自身を納得させようとする。

 

    吉野淳一札幌医大教授は2011年、夢の中での自死者と遺族との再会場面を描写することの研究をした。

 

    自死者のメッセージを汲み取ったり、あるいは求めても得られない限界を察する中で、癒しに繋がる体験、「語り直し」の効果を考察した。

 

    ブルーナーによれば、思考には因果関係や普遍性を追求する「論理科学モード」と、現象や出来事を物語的に捉えて、なんらかの意味を見出そうとする「ナラティブモード」がある。

 

    いたこやミディアムなどは言うに及ばず、サインやシンボル、車のナンバーなど、遺族は物語にすがりたい。

 

    わたしは基本的に懐疑的で論理的傾向が強い。特に既存の価値観やメディアの世論操作に関して。

    たとえば、北朝鮮のミサイル発射にしても、「これは北朝鮮の国威発揚と、日本の防衛強化の利害が合致しているので、極秘裏に示し合わせてやっているのではないか?」と思っているくらいである。

 

    遺族としても、自分が死んだら長男と歓喜の再会・・・とか信じていないので、スタート地点としての絶望感はどうしようもなく深い。

    だからといって、「どうせ死んだら無になるのだから、後は好きなように楽しめば良い」とも割り切れない。何らかの必然性をもったストーリーがほしい。

 

    虫明元東北大大学院教授によると、ナラティブ思考のうち「情動的共感」は共感性を育み、他者との一体感を強化する一方、考え方の違う異分子を敵とみなして排除しようとする一面もある。 

    また、他者の気持ちは理解できるが自分とは一体化しないという「認知的共感」は、詐欺をはじめ人の感情を操作して利用することにも用いられる。アメリカ大統領選挙やイギリスEU離脱などにも世論操作に使われた。

 

    このようなリスクはあるが、自尊感情や多様性の受容、創造に繋がる想像力の涵養のため、ナラティブ思考を育むための情動的スキル向上を提唱しているのが、OECDである。この機関の言うきれいごとは、経済発展のためという気がするが、修身斎家治国平天下のためには経済の安定が大事というのはわかる。

 

    結局、家族が自死した事実について、遺族として生き続けるためには、なんらかの前向きな物語を編んで、意味付けしてそれを信じて、自分もキャストの一員として役をまっとうするしかない。

 

    分ち合いの会は、ナラティブセラピーとしての意味を持つだろう。たとえ断片的なプロットであっても、人の物語を傾聴することが大きなヒントになったりする。とても創造的な癒しの場だと思っている。

 

    俳句は、特別な体験や旅行に出かけたりしなくても、日常に潜んでいる詩情を汲み取り切り取り描写することで、日々を豊かに意味づける。わたしなどは、仕事が論理的整合性にがんじがらめだったので、バランスをとるためにも有意義だった。

 

 

    散歩中に見かけた野襤褸菊の絮(わた)。秋で良いと思うが、季語ではない。折からの夕風に吹かれて、瀬戸内海へと通じる川へ漂っていった。

    菊は、絮を飛ばした後は、どこかで根付いて育ってくれることを信じて、自分はそこに佇んでいるしかない。

 

 

    今週末は彼岸参り。悲願の優勝を遂げたタイガースは、長男が小学校六年以来である。長男はタイガースの日本一を、まだ見ていない。

 

のぼろ菊爆ぜて色なき風の中