佐渡ヶ島一周207kmを移動時間9時間で走ってきた。

    200kmは、京都から岡山の距離。謙遜ではなく、全く自信はなかった。

    予想に反して天候に恵まれたことと、 ペースメーカーとして伴走してくれた次男に感謝。

 

 

    千里の道も一歩から。

「千里の道程をこなすには、まず一歩を踏み出さねばならない」

というのが本意なのだろうが、

「一歩一歩を積み重ねているうちに、いつの間にか200km走ってました」

 

というのが実感。

 

    37,302ストローク。自転車のクランクを回転させた回数である。1ストロークは歩行時の2歩だから、7万4千歩余りである。

    そう考えると、なんだその程度か、とも思う。

 

    わたしの知人には、30時間で600km走るような、頭のイカれた超人たちが何人もいるので、人との比較など意味が無い。

 

    普段のわたしは、動物園のナマケモノ同然、何の運動もしていない。その上、どうしても完走したいという情熱がない。

    出発前はまさにトラベルブルーで、何とか不可避のトラブルが発生して、旅行が中止にならないかとばかり願っていた。

 

    荒天、熱中症、腰痛再発、マシンの故障、交通事故・・・不安要素はキリがない。

 

    ウエアの厳選、ミネラルタブレットやパラチノース、BCAAなどの補給、事前の鍼治療、神経質なほどの機材整備、ロードサービス付きの自転車保険加入・・・不安に応じた準備はした。

 

    あとは走行状態をリアルタイムで可視化しながら走る。

    速度→体調と対照して、ペース配分を決める。

    ケイデンス(1分あたりのクランク回転数)→できるだけ一定に保つことで筋疲労を遅らせる。

    出力(パワー)→無風時の時速25km=追い風時の時速35km=向かい風時の時速15kmがそれぞれ同じ出力だったりする。負荷を一定に保つことが、車と同じで燃費が一番良い。

    心拍数→運動強度の主観と数値を常に照合して、特に登坂時の過負荷を避ける。

    斜度→勾配の程度をリアルタイムで把握することで、主観的な負担感が薄れる。佐渡ヶ島はZ坂があまりに有名だが、実際は最大斜度11%で、六甲山などに比べると、全然大したことは無い。

 
 

左奥のつづら折れが、Zの字に見えるので、Z坂と呼ばれている(実際は、兵庫県宝塚市の蓬莱峡を一部切り取った程度。まぁ、海岸沿いの景色は綺麗。)
 
 

 
 

    あとは時刻や距離、獲得標高や気温など、すべて表示されるので、都度確認する。消費カロリーは約4,000。推定発汗量は6,500mlになった。(ペットボトル13本分は、さすがにオーバーな気はするが。)

 

 

    このように、現代のサイクリングは、データと共存しており、自分をマシンと一体の移動体として、数値を可視化することにより、不安や疲労を最小限に抑えられる。力任せにペダルを踏むのは、体力だけで走り切れる若者の特権である。

 

 (頭を雲の上に出した富士の山)
 
 

    これでもわたしなどは数値にかなりアバウトな方である。レースに出るような人は、もっと厳密に何週間も前からデータを取って、本番で最大のパフォーマンスを発揮できるように、日々のトレーニングメニューを作成している。

 

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    脊椎損傷の方が、脳にセットした電極を通じて、脳波で義足や義手を操作する実験が成功している。電動車椅子も、念じるだけで運転できるようになった。

 

    医療倫理のハードルは高いが、そのうち辛い記憶をリセットする技術も出てくるだろう。

    その前に、かなしみが数値化、可視化されるようになるだろう。そうなれば、遺族のダメージも理解が進むのではないだろうか。

    また、あと数年もすれば、AIで故人と話ができるようになるだろう。

 

    うつが心の風邪だとか、未だにトンチンカンな暴言を吐く人はいるが、セロトニンレセプターの性質上、遺伝的に楽観や、悲観的な人は分かれている。本人の責任ではない。

 

    わたしの今回のチャレンジは、「やればできる」という確信からはじまったのではない。

    なし崩し的に「やらなければ収拾がつかない」という事態に自分を追い込み、「やってみたら、たまたま運が良くてできてしまった」ものである。

    なので、わたしは人に向かって「頑張れ」とは言わないし、「今のままではダメだ」なんて決して言わない。

 

    なんだか世の中は、「変わらなければダメだ」という強迫観念に支配されている気がする。政治とか企業運営とか、スポーツも芸能も、みんなみんな、そんな気分に染まって抜け出せなくなっているのに、自由を奪われていることにすら気づけないのではないか。

 

「変わらなくちゃ」という深層心理に支配されると、自己肯定感が下がる。当たり前である。

    今、自己肯定感が低い人が溢れているのは、国全体が妙なプライドとか(大日本帝国とかバブルの幻影を含む)焦りとか、他者攻撃や劣等感の裏返しの支配欲などに振り回されて、足下を見ずにやみくもに変化だ進歩だなどと声高に叫んでいるだけではないのか。

 

    多くの親は、子どもを褒めて伸ばしたいと思うが、同時にダブルバインドで「今のままでは愛してあげない」というノンバーバルメッセージを発している。それが子どもの自尊感情を傷つけていることが非常に多い。もちろん、わたし自身の反省であり、後悔である。

 

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    自転車の世界で変態、ド変態と賞賛される(本当に褒め言葉として使われている)人達を見ていると、そこまで自分をいじめないと、自分を肯定したり承認したりできないのだろうか、と気の毒になる。

    負け惜しみと取られても全く構わないけれど、600km一度に走る人を見ても、全然うらやましくないし、真似しようとか、毛ほども思わない。

    彼ら彼女らは、生きやすさという概念に反発し、体力気力の限界、命ギリギリまで走り抜く戦い抜くことこそが充実感、生きがいになっている。フィジカルが上がれば、当然チャレンジのハードルも上がる。キリがない。

 

    わたしの見立てでは、夜が涼しいからという(一見合理的な)理由で、夜間に山に上るようになるのが、あっちの世界に行ってしまう判別ラインである。

 

    そんなことをつれづれに考えつつ、わたし自身はライトな自転車機材愛好者として、体をいたわりつつ、怠けつつ、ほどほどの遁世生活を送っていこうと思ったのが、今回のライドの総括。

 

    たとえば鉄道マニアにも様々な分野がある。乗り鉄、撮り鉄のほかにも、模型マニア、時刻表マニア、駅弁包装紙蒐集、鉄道法規研究など・・・。

    わたしは自転車でガンガン走るより、部品を組み替えて、性能や機能の違いを味わうようなことが好き。ただ。お金が無いので実際にはマニアには程遠い。

 

 

 

    一歩を踏み出せずにいる方へ。今さら失うもののことなど心配しても仕方ない。失敗しようが途中で止めようが、それは負けではないし、責められることもない。踏み出す方向が間違っていたって構わない。既にもう、取り返しのつかないことは終わっているのだから。

 

    とりあえず一歩を踏み出すことが、自分が自分であるということを改めて思い出させてくれる。変わらなくていい。変わらないのが自分だというのがわかるだけ。変わっても勿論良い。それが新たな自分なのだと気づくから。自分を解放し、赦し、認めてあげよう。

 

 

 
 

     泊まった民宿は、カニや刺身の舟盛が付いて、1泊2食付8,800円だった🐟🦀。

    佐渡、良いところですよ。もう行かないと思うけど・・・