シン・仮面ライダーは結局見に行かなかった。そのうちAmazonプライムで観られるだろう。

 

    あれは本来(アクション映画ではなくて)情緒の映画なのに、情報を詰め込みすぎて、鑑賞の消化不良になる(ジーンと浸っている時間が無い)という解説を読んで納得できた。

 

   なので、一部のオタクたちは何度も何度も見に行って、その度に泣いているようだ。

    果たしてその泣けるポイントとは何か?

 

    皆それぞれに、後に残る者を「信頼して」、「思いを託して」自分は去っていくからである。

 

 

    ここで思い出したのは、フランクルである。

    わたしは若い頃はマズローやロジャース、ロロ・メイ、フロム、アドラーなどと並んで、いや多分一番フランクルが好きで、修論のテーマにもしたのだが、今から思い返せば小難しいことを並べ立てているだけで、じつは本質がよく分かっていなかった。

 

    「自分が世界から期待されている」というのはフランクルの有名な言葉だが、元々がドイツ語なので、訳してもなんだかしっくりこない。分かったようでストンと落ちない。

(虚栄は他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない、というのも好きなことば。)

 

    それが、シン・仮面ライダーの本郷猛が、肉体を捨て去る際に、一文字隼人に託した言葉。「あとは頼む。」

    これを聞いた時に、ストンと腑に落ちた。

 

 

    長男がこの世を去るその時、心の中は絶望に満たされ、外からの光など一筋も受け付けなかっただろう。

    だけど、長男はもともと人間嫌いという訳では無かった。どうにかして信じたい、信じようとしていた。

 

    自分の出来ることはここまで。だとしたら、最期の瞬間は、全人類を呪いつつ逝くのではなくて、結果は分からないけれど、信じて託したい。

 

    昨日の阪神巨人戦で、好投しつつ交代させられた大竹投手が、ベンチの中で味方打線のヒットを祈りつつ、近本選手が打って点を取ってくれた瞬間に、タオルを握りしめて号泣していた。こんなシーンは初めて見た。

    生け花が趣味で毎日切り花の手入れをしている大竹投手は、今一番気になる、応援しがいのある人である。

 

 

    自死遺族は、空に還った家族から、「頼まれている」、「任されている」。

 

    そう自覚できれば、そう自覚することで、余生は変わってくるだろう。

 

 

    写真は、庭の薔薇。今年は手入れを怠っていたためもあり、花のつきが良くないが、何とか咲いてくれた。

 

 託して去る側とすれば、自分の思いを受け取ってくれる人がいる(と信じる)だけで、その瞬間に救われる、そんな気がする。