ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ -2ページ目

ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

レストランの各種お知らせ。自身の人柄紹介

          鉄と血の世紀                
              第三章、知恵の限りに
何でも屋登場

ワシントン会議の結果、主力艦(戦艦)が制限されますと、誰でも考えるのは同じ

事、巡洋艦勢力の拡大がはかられます。一万トン以内、20センチ砲までなら、何隻造ってもよいのですから。

此処に排水量一万トン、20センチ砲多数の巡洋艦が多数建造されるのです。これを条約型巡洋艦と言います。従来の巡洋戦艦や巡洋艦とは違い、格段の戦力アップを図りました。


艦隊の目としての偵察、や哨戒、そして戦闘になれば、その65㎞もの高速を生かし、敵の駆逐艦をその20センチ砲でけちらし、主力艦に対しては、強大な魚雷戦力で、戦いを挑みます。この20センチ砲と言うのは、これまでの戦艦の副砲や巡洋艦の主砲の15センチよりも、はるかに強力ですから、戦艦と言えども侮れません。また魚雷は防御の薄い、水面下に命中しますから、一発当たれば大変な被害、もしくは沈没の憂き目を見ますから、速度の遅い戦艦にとっては、嫌な相手なのです。

技術者達は戦艦にとって嫌な相手になることを念じて、この巡洋艦を造ったのでした。


重巡洋艦妙高 一万トン以内、20センチ砲までと言うワシントン条約の制限のため従来の巡洋艦より 大型で、強力な砲戦力の巡洋艦になった、


こうして従来の巡洋艦を凌ぐ条約型巡洋艦を、重巡洋艦、略して重巡と呼ぶことになりました。このように各国とも条約の隙間を縫うように、自国海軍の整備を目指すのですが、それでもそれができたのは好景気で、予算が捻出できたからなのです。しかし、条約発効から8年後、どこの国も予算が組めなくなりました
              
                
真珠湾への路
1929年10月 世界恐慌
世界恐慌の発生で、軍艦建造どころではなくなりました。ワシントン条約の失効する2年前、1930(昭和5)年、世界恐慌で台所の苦しくなった各国は、条約の延長と、無制限だった補助艦も制限しようと試みたのです。先に主力艦で60%を飲まされた日本は、補助艦こそ70%にさせろ、と踏ん張りますが世界恐慌で息絶え絶えの列強各国は、これ以上日本を強国にしないために、主力艦だけでなく、”補助艦も60%にしろ”と要求します。

此処に日本は完全に対米、対英、60%に押さえ込まれます。

1930(昭和5)年4月、ロンドン軍縮条約は調印されます。日本が英米に屈服した様な印象を残して。


反英米感情が生んだ新兵器
政府、世論は、あげて英米の横暴を非難し、とくにアメリカに対する憎しみは頂点に達します。加藤(寛)海軍軍令部長は天皇に、政府は賛成でも海軍は反対である、と申し上げ、辞職してしまいます。国論は賛成、反対に二分されますが東郷元帥の鶴の一声で静まるのです。”訓練に制限無し、百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る”誰もこの人には逆らえません、、、


海軍は駆逐艦などの制限外艦艇、航空兵力の充実とさらなる猛訓練を強調して、国論をなだめるのですが、国民の間には、辛く厳しい世界恐慌の恨み辛みと、英米の主張を重ねてみる風潮が現れ始めました。

東郷元帥の言葉が励みとなり、英米憎しの感情の高ぶりが、海軍軍人に、臥薪嘗胆(がしんしようたん)を求めます。そして、なにくそ、の気持ちが、常軌を逸した猛訓練になって現れます。米国との艦隊決戦を何が何でも勝ち抜くために、全海軍の戦力を、無駄なく効果的に発揮し、対米六割の劣勢を跳ね返し、勝利しようと云うのです。(注 臥薪嘗胆(がしんしようたん) とてつもない我慢 中国の故事に由来)


荒天の真夜、無灯火で二十隻もの艦隊が、高速で戦闘行動をし、秒単位のタイムチャートで、一斉反転したり、一万㍍先の、ライターの火をめがけて、第一斉射で命中させたり、70㎞近い駆逐艦が、敵艦の300㍍近くまで肉迫(にくはく)して魚雷を発射したり、無線を封鎖(ふうさ)した状態で、手旗や発光で命令伝達を迅速に行ったり、ともかく一分でも早く敵艦を見つけ、一秒でも早く砲弾や魚雷を敵に命中させる為に人智の及ぶ限りを尽くしたのです。この猛訓練が数々の新兵器を生み出します。それは、
  
(注 肉迫(にくはく) 急激にぶつかりそうなほど近づく)(注 封鎖(ふうさ) 封印し誰もさわれないような状態)


係留式浮遊機雷
従来機雷とは一個ずつが個体で海中に設置されますがこれは、敵艦隊が侵攻してくる海面に二個、三個と、200㍍ほどの鎖で、繋いで設置するのです。これを数多く予想海面に設置しておきます。敵艦は、機雷に直接触れなくとも、鎖を引っかけて引きずりますから、止めてある機雷が二個、三個と、艦体に絡みつき爆発するのです。
味方が引っかけたら自爆になってしまうと、思うでしょうが、味方艦の艦首はこれを乗り切れるように、整形されています。海面下が後部に大きく後退しているのです。これは極秘事項でした。しかし後に海面下を後退させると艦のスピードが出なくなることが解りこの繋留式浮遊機雷は、使用取りやめになりました。


九三式酸素魚雷
1933(昭和8)年、これまで空気で走っていた魚雷の燃料を、酸素にしたのです。なぜそうしたかと言えば、空気を吹き出すと、海面上に泡が立ち、魚雷が向かってきていることが遥か遠くから解ってしまいます。これでは避けられてしまいますし、その航跡をたどれば、潜んでいる潜水艦の位置もばれてしまいます。

空気の替わりに酸素を吹き出せば、海水に溶けてしまいますから、海面上に航跡を残しません。爆発するまで、解らないのです。従って避けることも、潜水艦の位置を割り出すこともできないのです。この時代には水中音探知機(ソナー)は未だ不完全な状態ですから、この無航跡魚雷は大変な機密兵器でした。理屈では各国とも解っていたのですが、燃えやすい酸素を少しずつ取り出す技術が凄く難しく、実験するたびに、暴発を繰り返し、とうとう各国とも諦めていたのです。一人日本だけが開発に成功していました。


事実この威力は凄まじく、8年後に日米が開戦するや、1942(昭和17)年初頭の、バタビヤ沖、スラバヤ沖の両海戦で米豪蘭(アメリカ オーストラリア オランダ)三カ国連合の重巡艦隊を撃破したのです。

敵艦隊はオランダのドールマン少将に指揮されていましたが、旗艦の重巡デロイテルは、三万㍍から放った我が重巡足柄の、酸素魚雷で、轟沈させられました。ドールマン司令官はこの時重傷を負い数時間後に戦死しますが、最後まで付近に潜水艦がいるものと思い込み、味方に対潜警戒の強化を命じ、当てずっぽうの海域に爆雷を投下し続けさせたのです。


この時代米英連合国の魚雷は、到達距離7千㍍の空気魚雷でした。4万㍍近く走る無航跡の酸素魚雷の存在を知りませんでした。ちなみにこのスラバヤ海戦では三隻の重巡を撃沈しますが、いずれもこの酸素魚雷の戦果です。日本艦隊の砲弾は、あれ程の猛訓練を積んだにもかかわらず、一発も当たらなかったのです。二時間以上の間撃ち続けたのに。無論連合国のも。。。


ちなみに大戦も終了し更に38年も後の、1983年のフォークランド戦争時の英国の魚雷は未だ、到達距離8千㍍の、真っ白い泡を吹き出しながら走る、前近代的空気魚雷でした。


サイレントネイビー
世に言う月月火水木金金(げつげつかすいもくきんきん)、土曜も日曜もない猛訓練が始まりました。この事は当時の流行歌にもなり、現在は軍歌として、多くに愛唱されています。技術者達はさらなる個艦優位を合い言葉に、巡洋艦は、敵巡洋艦に、戦艦は、敵戦艦に、個艦同士を比較して、優勢になるように改装につぐ改装を重ね、僅かに許可された新造艦は、制限内で目一杯の強武装、高速力、を求めました、この結果極端に重心が上になってしまい、強風下の訓練で転覆してしまう艦が出現しました。トップヘビーという状態になったのです。

世間は恐慌のあおりで、庶民の生活は窮乏し憤激した、若手将校達が、血盟団事件,や226,事件などを起こし、政党政治は衰退の一歩をたどり、次第に陸軍の横暴が目に付くようになり、満州に、中国に、きな臭い煙が立ち始めます。しかし政治に口を挟むこともなく、ひたすら猛訓練に明け暮れる、日本海軍を、世界中で誰言うともなく、尊敬の念を込めて、サイレントネイビーと呼ぶようになりました


 厳しい訓練で疲れ果て、熟睡する水兵達

国連脱退
こうしてロンドン条約を調印した日本海軍はひたすら静かに訓練に明け暮れますが、1932(昭和7)年ジュネーブでさらに軍縮会議が開かれます。この時は主に陸軍が対象でした。国連はリットン調査団を満州に派遣して、詳しく調査し、満州事変、日支事変、を厳しく詰問しました。ワシントン会議以来10年、会議の度に日本に大幅な譲歩を迫る、英米に対して、軟弱外交、内政失政を理由に、若手海軍将校と、陸軍士官候補生が決起し515事件をおこします。犬養首相が暗殺され、ジュネーブ会議は中断します。

       

    515事件の海軍側軍法会議、中央 高須四郎判司長(裁判長)大佐 
    この時の温情的判決が後の226事件を招いたとも言われている



長引く不況、世界恐慌の影響は張本人のアメリカよりも、国力の弱い日本やドイツで顕著でした。国民は疲弊し、特に東北北海道の農村は壊滅的な被害を被っていました。小作料を払うために家財を売り払い、丸裸になった農民が次に売れるのは娘だけでした。

東北中、北海道中で娘の身売りが相次ぎ、値下がりしてしまいました。東京や大阪の人身売買業者(女衒)(ぜげん)が安く買いたたくのです。小作料を払っても、なにがしかの金額が残り、来年の田畑の耕作や種子購入の資金が残るはずでしたが、値下がりしてしまい、やっと小作料が払える金額にしか成らないのです。


農民たちは値段の交渉などしたことがなかったので、女衒たちのいいなり放題、値切られてしまうのです。見るに見かねた村役場、が仲介に入ることになりました。文字通り身を切る思いで売る娘が、安く買いたたかれないためにです。役場の入り口にこんな張り紙が出たのです。”娘 身売りの節は 当役場まで申し出ください”と。


知らない人、がこれを見れば、役場が身売りを奨励しているように思う人もいるでしょう、今の考え方では理解できない方も多いと思います。誤解を避けるためにこれだけははっきり言っておこうと思います。断じて違うのです。役場の取った行動はあくまでも悲惨な立場の農民たちを救うため、の善意でした。

この時代本人の同意があれば年季奉公は、義務教育年齢を過ぎていれば合法でしたし、また十六歳以上であれば売春も合法でした(戦後十数年も過ぎた昭和三十年代まで)


さらに悲惨なのは、この時代は5人や6人の兄弟、姉妹は当たり前の時代、売られる娘には大抵、徴兵適齢の兄がいました。つらい訓練のさなか兵舎の中で受け取る親からの知らせに、驚き嘆き、涙したのは理解できるでしょう。


一番、世の無常を嘆き悲憤慷慨(ひふんこうがい)したのが彼等兵士の直属の上官、少尉、中尉と言った20才代の青年将校達でした。徴兵で集められ、第一線で国防をになう筈の自分の部下達、、手塩に掛けて屈強な兵士に育て上げる筈の部下達を襲う不幸、帝国陸軍のソルジャー達を痛めつける不条理、こんな事は取り除かねばならない。彼等青年将校達は、こう考えました。(世界恐慌の原因は、2008年のリーマンショックと全く同じ図式、アメリカ発でした)

アメリカの尻馬に乗って、時代を造った政治家や事業家を悪の権化と決めつけ、排除しようとしたのです。


青年将校ばかりでなく当時の日本人は、私の知る限り、多くの人がこう考えていたようです。ですから憎むべきテロでありながら犯人である青年達には、相当同情的でした。マスコミも驚きは表しましたが、けして犯人達を罵りはしなかったのです。むしろこの事件を機に、満州や中国での日本の行動、政策にことごとく反対するアメリカを、憎む気持ちが農村部に蔓延し始めるのです。


国民の同情的反応を見た軍部は、ますます専横的になり、五年後、次なる大事件、226事件を引き起こすことになるのです。が、、、このような国内事情、国民的コンセンサス、を背景に政府は対米強硬路線を走り始めるのです、、、、

翌年ジュネーブ会議は再会しますが、中国からの撤退を求められた日本は、松岡全権の反対演説をもってジュネーブ会議ではなく国際連盟を、脱退してしまいました。

翌1934(昭和9)年日本は、ワシントン条約からも、脱退します。元々日本が目当ての条約ですから、英米の目指す形での軍縮などとうてい不可能になり、主力艦に関する条約その物が無くなる、無条約時代を迎えることになりました。
1936(昭和11)年、補助艦を取り決めたロンドン会議も脱退します。これで補助艦の制限も無くなりました。世間では、折からの大不況を憂いた、陸軍青年将校達が、昭和維新を旗印に、クーデターを起こし、重臣排除、軍部独裁を叫びます。226事件です。まるで制限の亡くなった海軍は、条約時代に密かに研究、設計していた強力な戦艦を、実現させようと、着工します。


戦艦大和、1937(昭和11)年、呉海軍工廠で


1922年(大正11)年、ワシントン会
                                        、、、、続く








霞ヶ浦のヒヨコたち
1922(大11)この横須賀航空隊で経験を積んだ海軍は茨城県の霞ヶ浦に、大規模な航空部隊と、練習航空隊(後の予科練)を新設することになるのです。二年後(1924)この新設霞空(かすくう)(霞ヶ浦航空隊の略)の副長に、後の連合艦隊司令長官、山本五十六(当時中佐)が着任します。ここでの体験が彼、山本の航空認識を、さらに強固な物にするのです。1年後、再度アメリカ駐在武官を命じられます。

     霞ヶ浦海軍航空隊、1937(昭和12)頃



この山本五十六という人は1919から22までの3年間アメリカのハーバード大学に留学していました。無論海軍軍人としての国費留学生です。日本屈指の知米派、そんな人が航空と結びつけば、戦艦無用論を展開するのは当然の帰結でしょう。ともかく陸海全軍の中で、アメリカ通と言うのは非常に数が少なく、第一次大戦後世界最強国に成長し、日本の仮想敵国筆頭になったにもかかわらず、アメリカの事に詳しい軍人は殆ど居なかったのです。


アメリカとの交渉事や、国力、文化、戦力研究、等々、全部山本さん一人で、取り仕切っていたような状態でした。この霞ヶ浦の練習航空隊、5年後の1927年、隣の土浦に移り、名高い予科練として、全国に名を轟かすのです。


大空の侍の卵達は、山本副長のアメリカ談義を聞きながら、胸の内に

”アメリカ何する者ぞ”の気概を満たし、日夜、航空技術を磨いたのでした。


海軍航空ですから、その主眼は空母艦載機です。空母の搭乗員を養成するのが目的になります。滑走路上にペンキで空母の甲板の型をかきます。そのペンキの中から発進、着陸を繰り返すのです。さらに空母は揺れますから、斜めに傾く事が多いので、甲板の形の斜めに盛り土をした滑走路に着陸させたり、発進させたり、ともかく、地上で空母のあらゆる状態を想定して、基礎訓練を繰り返すのです。


着陸も陸軍機のようになめらかにすべりおりるのではなく、前後3個の車輪を同時に着地させる、三点着陸ですから、ドスン”と言った感じ、降りると言うより、落ちる、と言う感じです。陸軍では、機体にダメージを与えると言う理由で禁止していましたが、滑走距離を長く取れない空母では、全てこのやり方なのです。下で見ていると、ムササビが滑空しているような状態に見えます。


計器飛行訓練では、膨大な数のメーターだけを頼りに、母艦を飛び立ってから、刻々と変わる自機の現在位置を割り出し、目的地に到着し燃料が切れる直前までに、母艦に帰るのです。勿論、始めは地上のシュミレーションで嫌と言うほど訓練してから、行うのですが、何も目印のない海上を、延々と飛び続ける海軍機には絶対に必要な訓練でした。


余談ですが太平洋戦争になって、ラバウルやソロモンの決戦で、陸軍機が活躍できず、海軍機だけが絶望的な戦いを強いられたのは、この事が原因でした。陸軍機は計器飛行が出来なかったのです。太平洋での戦いになり、急遽洋上航法を取り入れますがもはや手遅れでした。地上や海上に川や線路、島と言った解りやすい目印が無いと、自機の現在位置が解らず、結果として基地へ戻れないのです。

長年に渡り、大陸の決戦を夢見た陸軍航空隊の欠陥でした。


航空母艦赤城1927(昭和2)完成 

三段式飛行甲板、発艦と着艦を同時に行うと言う着想でこうなったが、実際には飛行甲板が短くなり過ぎ航空機の進歩と共に役には立たなくなった。明らかな失敗作 後に大改装を行うことになる

中段の飛行甲板には敵艦と遭遇した場合を考えて20㎝連装砲二基、後部に々20㎝単装六門を備えていた。この時代列強の空母(サラトガ、レキシントン等々)は大抵、重巡並みの砲戦力を持っていた。


空中戦技訓練は、茨城県沖、鹿島灘上空、眼下の海では漁船が、名物アンコウ漁の真っ最中、漁船目がけて急降下訓練、自分の船に落ちてくると思って慌てて海に飛び込みます。高度400㍍、ぎりぎりになって急上昇、この時、翼を揺すって挨拶代わりのバンク、漁師達はこれを見て、日本の空の守りを、確信するのでした。

戦闘機の空戦訓練は、1対1の決闘方式がこの時代の主流、いかに早く敵機の後ろに付くか、が勝負ですから、下で見ているとまるっきり空中サーカス、ショウです。これが始まると海上の漁師達は、仕事などそっちのけ、ヤンヤヤンヤの大喝采、どっちが勝つかなどと、博打を始めるような不心得者もいます。尾翼を赤、と青に塗り分け、赤軍と、青軍に分かれますから、見物の荒くれ男共が博打を始めるのもうなずけるでしょう。青が日本、赤がアメリカです。射撃訓練は、尾翼に付けた5㍍程の吹き流し、これを目がけて実弾射撃です。命中すれば穴ボコが開きますから、穴の数で勝敗を決めるのです。たまに機体を撃ってしまう事故もしばしばでした。


この時代帝国海軍の信頼は厚く、猛訓練は全国民の望むところです。漁師に迷惑かけないように、などと手を抜けば、たちどころに隊にお叱りの葉書が舞い込むのでした。
”そんなことで国防が勤まるのか”と、、、。空ばかりではありません、器械体操、や球形のジャングルジムを中から操り、転がりながら競争、高いところから飛び降りたり、地上10㍍の平均台、柔道や剣道、無線関連技術、高等数学、それに仮想的国の英語等々、寸暇を惜しまずみっちり学ぶのです。15歳から18歳までの少年達1学年250人程です。全国の秀才を集めてみっちり教育しますから、4年後には操縦術だけでなく、一般技術者としても優れた人材になっているのでした。
        
         下図 鹿島灘上空の空戦訓練 吹き流しを撃つ

    



下図平衡感覚を養う体操用具 このまま転がる 上級用に球形の物もある


             


鉄と血の世紀                
              第三章、知恵の限りに
何でも屋登場
ワシントン会議の結果、主力艦(戦艦)が制限されますと、誰でも考えるのは同じ事、巡洋艦勢力の拡、、、続く




前号より  レッドバロン、ことリヒトホーフェン大尉です。
当時の最新鋭機、三枚翼のフォッカーd-1三葉機を駆使し、太陽を背にして、高空から獲物に襲いかかるのです

       


   真紅のフォッカー三葉機で撃墜を重ねるリヒトフォーフェン


当時 戦闘機は目立たぬように迷彩塗装が義務付けられていましたが、彼はこれを無視、自機を真紅に塗り、敵味方全ての中で、輝いていました。リヒトホーフェンは元々男爵ですから、誰言うともなく赤い男爵、レッドバロン、とあだ名されることになりました。

このリヒトホーフェン戦闘機隊の活躍はめざましく、彼の征くところ、常に敵なしの状態になったのです。イギリスもフランスも面目をかけて彼に挑みますが、皆返り討ちです。そんな彼も運が尽き、イギリス航空隊のブラウン大尉に討ち取られます。

英航空隊では、好敵手、ライバルの死を悼み、盛大に葬儀を催し、その記録写真と、弔辞に花束を添えて、主のいなくなった、リヒトホーフェン戦闘機隊に送り届けました。

イギリスのマカディー大尉は、敵のドイツ機が銃弾を撃ち尽くし、パイロットも負傷してして息も絶え絶えになったのを見て、もはや戦闘力無しと見て、討ち取らずに励ましながら、戦線後方のドイツ陣地にエスコートしながら連れ帰りました。後にドイツ航空隊ではこのマカディー大尉に礼状とワインを送り届け、感謝の意を表しました。


ドイツのベルケ大尉は自分の撃ち落としたパイロットの死を悼んで、撃墜地点に追悼文に花束を添えて投下しました。


まだまだありますが、こう言った出来事は殺伐とした戦場にあっては、一服の清涼剤、従軍記者達は競って、世界に向けて配信したのです。無惨な戦争を一時だけ、感動の渦で包むのです。世界中が戦死者を悼み涙し、手厚く葬ってくれた勝利者に感謝と尊敬のまなざしを向けるのでした。こういった記事が新聞紙上を賑わすたびに、青少年達は一段と空への憧れを強くするのでした。


ヨーロッパでの飛行機の活躍に注目した日本は、それまでの試験的航空を切り上げ、1916(大5)横須賀に海軍航空隊を発足させることになります。まだ大戦の最中です。始めの内は戦闘機も爆撃機も区別は無く、敵機と遭遇すると、携帯している拳銃で撃ち合ったのです。ウエスタン映画のガンマンが空に上ったようなものです。その内二人乗りの機では後ろの見張り員がライフル銃で戦い、この方が有利だというので、二人乗りが多くなりました。飛行機が大型になるので多少の爆弾も積めます。適地の上空に来ると、ヨイショとばかり手で持ち上げ、落とすのです。まず命中する事は有りませんでした。



味方陣地を飛び越えて獲物を探すドイツ戦闘機


しかし1914年の開戦時には幼稚だった飛行機も、終戦の1918年頃には、長足の進歩を遂げました。何しろドイツで機関銃を積んだ飛行機が出来たのです。しかも自分のプロペラを損なうことなく、回転に同調させて銃弾が出るのです。これで、パイロットは自分で銃を構えなくとも、自機を敵機に向けて、引き金を引くだけで良くなりました。
自機を敵機に、いち早く向けるためにパイロットはあらゆる工夫をします。逆に言えば敵に正面を向けられたら終わりなのです。また機体も小回りが利き、無理にひねっても分解しない頑丈な機体、1㎞でも敵より早い速度、を目指して製作されます。戦闘機が生まれました。エース達はこの最初の戦闘機を乗りこなす事で生まれたのです。

         日本航空隊の初陣
1914年9月5日、日本海軍は、フランス製アンリファルマン複葉機で、ドイツの極東根拠地、青島(チンタオ)を偵察し、ついでに手榴弾を落としました。航空隊と言っても、陸軍も海軍も、一機ずつだけですが、これが日本軍機の初実戦、初陣になりましたが戦果はゼロ。つまり航空部隊ができる前の、実験研究部隊の段階での実戦参加になったのです。

世界初の爆弾投下は、この一月前、8月3日のドイツ機による、パリ爆撃でしたから、航空後進国の割りには、実戦参加は早かったのです。

        



     海軍のファルマン水上機、フランス製
   プロペラを舟のスクリューのように後ろ向けに付け、推進力で飛行した


陸軍の初陣は二十日ほど遅い9月23日、例の日本人最初のパイロット、上様こと徳川好敏少佐率いる陸軍機です。ドイツのニューポール機、この機は後部席に機関銃も装備していて、偵察と爆撃を繰り返しますが、やはり戦果は不明でした。徳川隊長自身も、10月4日、青島要塞を偵察し、初陣を飾ったのです。


10月13日、ヨタヨタと度重なる偵察や、チマチマと爆発物を投下する、小うるさい日本軍機に業を煮やしたドイツ軍は、手持ちの全機で出撃、、逆襲に出ました、、、

、、、 三機です、、、。

日本の二機と、ドイツの三機、ドイツの方が少しだけ性能はよいのですが、いずれにしてもやっと飛んでいる初期の飛行機、陸上の兵士達もしばし戦争をやめて、互いの応援合戦が始まりました。運動会の騎馬戦かせいぜい喧嘩タコの糸切り程度。結局燃料切れで尻切れトンボ、互いに被害は無かったのですが、後で搭乗員がゲーゲーやっていたとか、、、。
  
        



日本人初の空中戦 青島要塞上空にて


この1914年10月13日が、日本軍機の初空戦になりました。日本にはまだ航空隊は無く、試験段階で実践に参加したのです。


余談ですがこの青島要塞陥落後、降伏したドイツ兵達は、日本でしばしの抑留生活を送ります。武器を置いた勇者達を日本国民は暖かく向かえ、大戦中であるにもかかわらず、武士道の名の下、賓客としてもてなします。この日本国民の好意に対し、独兵達は感嘆と感謝の意を込めて、一編の響きを奏で日本国民に贈るのです。ベートーベンの交響曲、第九です

、、、。独逸(ドイツ)帝国の武人達は、感謝の心に第九を添えて、日本の侍達に贈り、去っていきました。


この時代飛行機の用途は主に偵察です。敵軍がどこにいるか、味方の砲弾は旨く命中しているか、駄目ならば空から無電で砲撃を誘導するのです。”ちょい右、ちょい下”などとこれをやられては味方に正確に砲弾が撃ち込まれてしまいますから、妨害するのです。飛行機で。。。妨害されれば砲撃が正確に出来ませんから、妨害しに来る奴を、妨害するのです。飛行機で。。。互いに国運をかけて飛行機やパイロットを生み出すのです。ほんの僅かでも敵より優れた者、物を。戦い方も初期の一騎打ち、武蔵と小次郎の様な決闘から、集団で数の劣る敵を捜しだして、なぶり殺す様な集団戦闘になってきました。


会議と言う名の謀略(日本を強国にしないために)
一部の軍人の間では、航空優先、戦艦無用論が唱えられ始めますが、大勢は大艦巨砲、艦隊決戦こそ、究極の勝利への道だと、言う考えでした。この時点では、日本海海戦の東郷元帥も健在、海軍、いや全国民の重鎮として、静かに日本を睥睨していました。

バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の圧勝が、東郷元帥を世界の英雄にしたて、日頃西欧列強に痛めつけられている北欧や東欧諸国、植民地や属国にされている印度やアジア各国、アフリカ等々から、大変な憧れと尊敬を集め、その人気は凄まじい物でした。

世界中で当時の人気役者や王族皇族の肖像やブロマイドに混じって、東郷元帥の肖像やブロマイドが販売されたのです。日本は無論の事、フィンランドでは、とうとう写真入り東郷ビールまで出現し21世紀の今も販売されています。まさにアレキサンダー、カエサル以来の英雄扱いでした。大国ロシアを打ち破った日露戦争、特にワンサイドゲームでロシア艦隊を撃滅した日本海海戦、絶対に落とせないと言われていた旅順要塞を一年も駆けずに攻略してしまった、日本軍の実力、 植民地支配からの脱却、自主独立を願うアジアの各国の独立運動の志士たちは、日本の大躍進を憧れと尊敬の念で注視していました。


日本に学べ、日本を手本に、と言う気持ち、風潮は、独立運動の指導者ばかりでなく植民地支配に苦しむアジア各国の庶民達に、信仰の様に広まったのです。


孫文、蒋介石、周恩来、ボース、ナイル、アウンサン、ネウイン、彼等は中国、印度、ビルマ(ミャンマー)の祖国統一運動や、独立運動の指導者達、全部日本に亡命、あるいは留学してしまいました。後にはフィリピンやインドネシアの運動家達も。何しろ母国にいれば、逮捕され死刑なのです。日本にいれば安全です。そして日本発の独立運動を繰り広げることになるのです。これらの国々を植民地や属国にしている欧米列強にしてみれば面白く無いに決まってます。


列強諸国の日本に対する見方が、これまでの弱者に対する同情的な見方から、いずれは自分たちを脅かす危険な存在、と言う風に変わり、大いなる警戒心を持たれるようになったのです。風変わりな侍の国と思われていた日本が、世界を動かすサムライの国、になりつつありました。世界中が日本を手本にし、日本海海戦の具体的な成果、戦艦の威力に目を見張り、日本ばかりか、世界を大艦巨砲に縛り付けていたのです。


しかし大戦が終わり、平和になれば今度は軍備縮小の機運がみなぎることになります。大戦で勝利したとは言え疲弊困憊、最早国力にゆとりの無くなった英仏、はアメリカを誘い、海軍の軍縮を唱えますが、本当の狙いは文明開化以来、着々と強国の道をひた走る日本だったのです。 


1921(大10)ワシントン軍縮会議。
会議で対英米60%に主力艦を制限されると、無制限の補助艦や、航空兵力の拡充が図られることになりました。
ワシントン会議の結果、帝国海軍のほんの一握りの、勢力、いや勢力とも云えない程度のグループだった、航空重視派が、急に元気付きます。何しろ飛行機の分野には制限が付かないのです。いや、この時点では飛行機の威力は未だ未知の物でした。ヨーロッパでの航空戦は、ゲーリングやインメルマン、リヒトホーフェン、ギルメール等の数多くのエーススターを生み出しますが、あくまでもその戦果は空の上だけの物、地上や海上に被害は殆ど無かったのです。
軍縮会議で制限したくとも何を制限すれば良いのか誰も理解していませんでした。


霞ヶ浦のヒヨコたち
1922(大11)この横須賀航空隊で経験を積んだ海軍は茨城県の霞ヶ浦に、大規模な航空部隊と、練習航空隊(後の予科練)を新設することになるのです。二年後(1924)この新設霞空(かすくう)(霞ヶ浦航空隊の略)の副長に、後の連合艦隊司令長官、山本五十六(当時中佐)が着任します。ここでの体験が彼、山本の航空認識を、さらに強固な物にす、、、続く