日本海軍戦艦物語 鉄と血の世紀 空こそ我が命 2 | ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

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霞ヶ浦のヒヨコたち
1922(大11)この横須賀航空隊で経験を積んだ海軍は茨城県の霞ヶ浦に、大規模な航空部隊と、練習航空隊(後の予科練)を新設することになるのです。二年後(1924)この新設霞空(かすくう)(霞ヶ浦航空隊の略)の副長に、後の連合艦隊司令長官、山本五十六(当時中佐)が着任します。ここでの体験が彼、山本の航空認識を、さらに強固な物にするのです。1年後、再度アメリカ駐在武官を命じられます。

     霞ヶ浦海軍航空隊、1937(昭和12)頃



この山本五十六という人は1919から22までの3年間アメリカのハーバード大学に留学していました。無論海軍軍人としての国費留学生です。日本屈指の知米派、そんな人が航空と結びつけば、戦艦無用論を展開するのは当然の帰結でしょう。ともかく陸海全軍の中で、アメリカ通と言うのは非常に数が少なく、第一次大戦後世界最強国に成長し、日本の仮想敵国筆頭になったにもかかわらず、アメリカの事に詳しい軍人は殆ど居なかったのです。


アメリカとの交渉事や、国力、文化、戦力研究、等々、全部山本さん一人で、取り仕切っていたような状態でした。この霞ヶ浦の練習航空隊、5年後の1927年、隣の土浦に移り、名高い予科練として、全国に名を轟かすのです。


大空の侍の卵達は、山本副長のアメリカ談義を聞きながら、胸の内に

”アメリカ何する者ぞ”の気概を満たし、日夜、航空技術を磨いたのでした。


海軍航空ですから、その主眼は空母艦載機です。空母の搭乗員を養成するのが目的になります。滑走路上にペンキで空母の甲板の型をかきます。そのペンキの中から発進、着陸を繰り返すのです。さらに空母は揺れますから、斜めに傾く事が多いので、甲板の形の斜めに盛り土をした滑走路に着陸させたり、発進させたり、ともかく、地上で空母のあらゆる状態を想定して、基礎訓練を繰り返すのです。


着陸も陸軍機のようになめらかにすべりおりるのではなく、前後3個の車輪を同時に着地させる、三点着陸ですから、ドスン”と言った感じ、降りると言うより、落ちる、と言う感じです。陸軍では、機体にダメージを与えると言う理由で禁止していましたが、滑走距離を長く取れない空母では、全てこのやり方なのです。下で見ていると、ムササビが滑空しているような状態に見えます。


計器飛行訓練では、膨大な数のメーターだけを頼りに、母艦を飛び立ってから、刻々と変わる自機の現在位置を割り出し、目的地に到着し燃料が切れる直前までに、母艦に帰るのです。勿論、始めは地上のシュミレーションで嫌と言うほど訓練してから、行うのですが、何も目印のない海上を、延々と飛び続ける海軍機には絶対に必要な訓練でした。


余談ですが太平洋戦争になって、ラバウルやソロモンの決戦で、陸軍機が活躍できず、海軍機だけが絶望的な戦いを強いられたのは、この事が原因でした。陸軍機は計器飛行が出来なかったのです。太平洋での戦いになり、急遽洋上航法を取り入れますがもはや手遅れでした。地上や海上に川や線路、島と言った解りやすい目印が無いと、自機の現在位置が解らず、結果として基地へ戻れないのです。

長年に渡り、大陸の決戦を夢見た陸軍航空隊の欠陥でした。


航空母艦赤城1927(昭和2)完成 

三段式飛行甲板、発艦と着艦を同時に行うと言う着想でこうなったが、実際には飛行甲板が短くなり過ぎ航空機の進歩と共に役には立たなくなった。明らかな失敗作 後に大改装を行うことになる

中段の飛行甲板には敵艦と遭遇した場合を考えて20㎝連装砲二基、後部に々20㎝単装六門を備えていた。この時代列強の空母(サラトガ、レキシントン等々)は大抵、重巡並みの砲戦力を持っていた。


空中戦技訓練は、茨城県沖、鹿島灘上空、眼下の海では漁船が、名物アンコウ漁の真っ最中、漁船目がけて急降下訓練、自分の船に落ちてくると思って慌てて海に飛び込みます。高度400㍍、ぎりぎりになって急上昇、この時、翼を揺すって挨拶代わりのバンク、漁師達はこれを見て、日本の空の守りを、確信するのでした。

戦闘機の空戦訓練は、1対1の決闘方式がこの時代の主流、いかに早く敵機の後ろに付くか、が勝負ですから、下で見ているとまるっきり空中サーカス、ショウです。これが始まると海上の漁師達は、仕事などそっちのけ、ヤンヤヤンヤの大喝采、どっちが勝つかなどと、博打を始めるような不心得者もいます。尾翼を赤、と青に塗り分け、赤軍と、青軍に分かれますから、見物の荒くれ男共が博打を始めるのもうなずけるでしょう。青が日本、赤がアメリカです。射撃訓練は、尾翼に付けた5㍍程の吹き流し、これを目がけて実弾射撃です。命中すれば穴ボコが開きますから、穴の数で勝敗を決めるのです。たまに機体を撃ってしまう事故もしばしばでした。


この時代帝国海軍の信頼は厚く、猛訓練は全国民の望むところです。漁師に迷惑かけないように、などと手を抜けば、たちどころに隊にお叱りの葉書が舞い込むのでした。
”そんなことで国防が勤まるのか”と、、、。空ばかりではありません、器械体操、や球形のジャングルジムを中から操り、転がりながら競争、高いところから飛び降りたり、地上10㍍の平均台、柔道や剣道、無線関連技術、高等数学、それに仮想的国の英語等々、寸暇を惜しまずみっちり学ぶのです。15歳から18歳までの少年達1学年250人程です。全国の秀才を集めてみっちり教育しますから、4年後には操縦術だけでなく、一般技術者としても優れた人材になっているのでした。
        
         下図 鹿島灘上空の空戦訓練 吹き流しを撃つ

    



下図平衡感覚を養う体操用具 このまま転がる 上級用に球形の物もある


             


鉄と血の世紀                
              第三章、知恵の限りに
何でも屋登場
ワシントン会議の結果、主力艦(戦艦)が制限されますと、誰でも考えるのは同じ事、巡洋艦勢力の拡、、、続く