日本海軍戦艦物語 鉄と血の世紀 大和建造中の世相 | ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

レストランの各種お知らせ。自身の人柄紹介

その大艦巨砲時代を終わらせたのは、他でもない、日本海軍自身でした。
                
              大和建造中の世相
たった二日の安全地帯
この大和の工事中、1939年8月末、山本五十六海軍次官(中将)が連合艦隊長官に就任します。二年前、大和の建造、着工に強硬に反対した提督です。米内光政海軍大臣、井上成美(しげよし)軍務局長、吉田善吾 前連合艦隊長官の強力な推薦でした。本当の理由はただ一つ、陸軍のテロから守るため、、、


すでに日独防共協定は、イタリアを加え日独伊三国防共協定に拡大されていました。文字通りソ連共産主義の拡大浸透を防ぐと言うのが大義名分なのですが、このままなら例え三国の内の一国が開戦しても自動参戦の義務はまだ無いのです。がしかし、同盟にしてしまえば、一国が開戦すれば自動的に参戦することになるのです。そうなると現在一触即発状態のヨーロッパ、いつ世界大戦になってもおかしくない状態で、その時には、ドイツ側として参戦させられてしまいます。つまり英仏蘭と開戦しなければならなくなるのです。


ヒトラーは英仏を敵に回すためには日本を戦争に巻き込む必要があったのです。日独伊三国で英仏を早期に下し、その上で究極の敵、ソ連を撃滅するのが最終目的でした。彼にとっては幸いにも日本はノモンハンでソ連と交戦中です。”防共協定を早く同盟にしろ”、とヒトラーは日本に迫るのですが、、、海軍首脳の猛反対に遭い,三国同盟は成立困難になります。しかし日本の外交陣よりナチスドイツは役者が上でした。
”そんなに三国同盟が嫌なら勝手にしろ、俺はお前等が戦っている相手、ソ連と握手するからな”、、、、

悪戦苦闘中のノモンハン事件の最中ヒトラーは独ソ不可侵条約を結んでしまいます。この結果起死回生、捲土重来を期す関東軍は出鼻をくじかれ、慌ててソ連と停戦しようとするのでした。


米内、山本、井上、彼等は当時海軍三羽カラスと渾名され、吉田を入れて四天王と言う人もいますが、スクラムを組み強行に日独伊三国同盟に反対していました。特に山本さんは歯に衣着せず、理路整然と、反対論を展開していたのです。理由は簡単、アメリカと戦争になるからです。同盟推進派の陸軍からは、恨み骨髄、憎まれていました。
”お前等が反対ばかりしやがるから、ヒトラーはソ連と握手しちまったじゃねーか、どうしてくれるんだ、この野郎”、、、こういう理屈です。

急進的な同盟推進派、はあからさまに意思表示、威嚇をしたのです。自宅に脅迫文や、脅迫電話、外から石を投げ込まれガラスが割れたり、今に命を狙われると考えるのは当然でした。誰もが3年前の226事件を思い起こしました。

当時軍の要人警護、の役目は憲兵隊の仕事でした。憲兵は陸軍の管轄、海軍は口が出せないのですが、彼等が一番過激な同盟推進勢力で、殆ど狂気のテロリストみたいなもの。

テロリストに護衛なんておっかなくて頼めません。一番安全な場所、海の上の連合艦隊旗艦、長門、此処なら陸軍も憲兵も、手が出せません。
こんな理由で山本さん本人の希望とは裏腹に、連合艦隊司令長官に親補、就任することになりました。
(注 親補 天皇に任命されること。高級軍人や政府高官は、各種推薦により天皇が任命 する親補職と、部内で任命する任官職に分類されていた、陸軍は師団長以上、海軍は各 艦隊、各鎮守府長官以上、は天皇に名目上は任命権があった)
(さらに注 鎮守府(ちんじゆふ) 軍港を起点に沿岸を防衛する海軍要塞部隊)
 


しかし運命とはいたずら者で、連合艦隊長官に就任した8月30日には、相当きな臭いとは言え、世界はまだ平和でした。しかし二日後、9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦(第二次欧州大戦)が始ったのです。結果的には日本が参戦するための、好戦的な人事、布陣と思われることになりました。そして世界の眼がポーランド侵攻中のドイツ軍に注がれている最中、9月中旬、ソ連との間にノモンハン事件の停戦協定が成立するのです。
くどいようですが解りやすく時間を追ってみましょう
1936 
  二月 2、26事件 
  五月 陸海軍大臣現役武官制復活
  十一月 日独防共協定締結 ソ連共産主義の浸透を防ぐ目的
1937
  十一月初旬 海軍軍縮条約失効、前々から開発研究していた戦艦大和着工(起工)   十一月下旬 日独防共協定、イタリアを加え三国防共協定に拡大、イタリアの発案で        ソ連だけでなくイギリスをも仮想敵に加える
1938
  国家総動員法発動
1939、五月
  第一次ノモンハン事件発生
同 七月
  第二次ノモンハン事件発生
同 八月二十三日
  独ソ不可侵条約締結、ヒトラー、スターリン ポーランド分割の密約を交わす
同 八月三十日
  山本五十六 連合艦隊司令長官就任 
同 九月一日 
  ドイツポーランドへ侵攻、第二次世界大戦(欧州大戦)始る、
同九月中旬
  ノモンハン事件停戦成立
1940 
同四月七日 
日ソ中立条約締結
同九月二十七日
   三国同盟締結 

思えば三国同盟に猛反対し、命を狙われ、安全地帯の連合艦隊に逃げ込んだつもりが、やがて始るアメリカとの死闘の一番槍、になるとは、運命だったのでしょう。そしてその間にも欧州や南米からは独英の戦艦対決の報告が刻々と届きます。


         武士(もののふ)を偲んで


(上図  排水量一万トン、28㎝砲六門、52㎞、ポケット戦艦と呼ばれたグラフシュペー号)
(後部砲塔の後ろ、後甲板上に魚雷発射管三連装二基を装備)

欧州大戦が始って4ヶ月、1939年の師走、ドイツのポケット戦艦、グラフシュペーがイギリスの巡洋艦部隊、エクゼター、アジャックス、アキレス等と死闘を演じ南米ウルグァイのモンテビデオ港に逃げ込みます。三ヶ月間の通商破壊戦でイギリス商船9隻を沈めた末の大捕物でした。


シュぺーは単艦良く戦い、英巡エクゼターを撃破しますが、自らも多数の命中弾を受け、一番最寄りのモンテビデオ港に駆け込んだのです。緊急避難、修理のために。しかし国際法で中立国の港には二十四時間しか居られないのです。表にはイギリスの大艦隊が手ぐすね引いて待ち構えているはずです。苦悩の末、ラングスドルフ艦長(大佐)は出港し、爆薬を仕掛け、全員ボートで脱出した後爆破、自沈させます。そして乗員を解放した後自ら命を絶ったのでした。世界中がラングスドルフ艦長の潔い最期を称えました。


建造中の大和では、工員達が古武士のようなラングスドルフを偲び、艦上のあちこちで黙祷を捧げ、哀悼の意を表したのです。この時は三国同盟はまだ結ばれていませんでした。

シュペー号が沈んだ半年後、七月二十二日、第二次近衛内閣の外務大臣に松岡洋右が就任します。これで三国同盟は決定的になりました。

九月、あれ程反対していた日独伊三国同盟が 締結されます。
後は自動的に対米開戦になるのでしょう。多分大和の完成する頃を見計らって、、、、長門艦上の山本長官は複雑な思いだったでしょう。


そんな長官の元へ近衛総理から、時局について語りたい、と言う誘いがあります。総理の別荘、荻窪の荻外荘(てきがいそう)に呼ばれた山本長官は、総理から訪ねられます。
”アメリカと戦争になった場合、海軍はどのぐらい戦えるのか、五分五分か、あるい は三七か?”

総理も良くて五分五分、と言うことは解っているのです。誰もアメリカに勝てる等と思っている奴はいません。せめて五分五分に戦えるのか、と聞いているのです。

長官は答えます、
”開戦して半年や一年は十分に暴れて見せます。しかし二年、三年と戦が続いた場合、 勝算はありません。その前に外交の力で和平を、それが出来なければ開戦しないで ください”と、、、

総理は、”解りました”と答えました。

”どう戦うか、長期戦になるのだけは避けねば、日本の強さを示しつつ短期に集結さ せるにはどうすればよいか”


思い悩む長官の耳に大変なニュースが飛び込みました。今までは想像するだけで実現するとは思えなかったような出来事が起こりました。それは、、、イギリスの航空艦隊がイタリア海軍の根拠地であるタラント港を空襲した、と言うニュースが飛び込んだのです。
”これだ”、、、、長官だけでなく航空派と言われている提督達は皆膝を打ったのでした。後述します、、、

一方、三国同盟を結んだ松岡外務大臣の頭にはソビエトを入れて、四国同盟にしようとの算段がありました。こうすれば日本がどう行動しようとアメリカは文句を言えないだろうと言うのです。力が対等に、それ以上になるからです。手始めに松岡外務大臣は日ソ中立条約を結びます。相手はくせ者スターリン、北の脅威を取り除いたとして大変な功績と思われましたが、思惑が外れました、二ヶ月後には、、、


英空母イラストリア スからタラントを空襲 したソードフイッシュ雷撃機 1940年時点でイギリスではまだ旧式な複葉機を雷撃機として使用していた。速度も日本の九七式艦上攻撃機と比べて100キロ近く低速だった。


鉄の暴風
着々と進展し程なく完成に向かう大和、日ソ中立条約締結の一月後、1941(昭16)年5月、世界中が驚愕する事件が持ち上がりました。ドイツの最新鋭戦艦ビスマルクと、イギリスの高速戦艦フッドが決闘を演じたのです。実際はイギリスの最新戦艦プリンスオブウエールズも一緒でした。大西洋へ出て行こうとするビスマルク、とプリンツオイゲンのドイツ艦隊を、そうはさせじとフッドとプリンスオブウエールズの英艦隊が阻止しに向かったのです。


今度は正真正銘の戦艦対決、ビスマルクが出現するまでは世界最大の戦艦フッド、完成直前で艦内に工事の配線工や、溶接工を乗せたまま、つまり残存工事をしながら出撃してきたプリンスオブウエールズ、この時点で世界最新の高速戦艦です。


一方対するドイツのビスマルクはこの時点で世界最大の戦艦、プリンツオイゲンは2万トン近い戦艦並みの重防禦巡洋艦、20センチ砲、速度は30ノット(56㎞)以上。世界中が固唾を呑んで成り行きを見守っていました。


世界最大戦艦vs世界第二位の大きさの戦艦、世界第二位の新型戦艦vs世界最新戦艦

どちらが勝つか、世界中の眼は、耳は、北大西洋に向けられました


5月24日、デンマーク海峡が北大西洋に広がるあたり、Poウエールズとフッド、二大戦艦が手ぐすね引いて待ちかまえる所へ、巌流島に現れた武蔵のごとく、ビスマルクが現れました。


二万㍍でフッドが砲撃開始、ビスマルクはまだ撃ちません。ウエールズからはまだ距離があり、撃ち合いには加われません。互いに回避運動をしながら一万七千㍍まで近づいた時、ビスマルクが砲撃を開始しました。第三斉射でフッドの主砲天蓋をぶち抜いた主砲弾は火薬庫で爆発、フッドは瞬時に二つに折れ沈みました。一七〇〇名の乗員で救助されたのは三名だけでした。



(世界最大の巡洋戦艦フッド ビスマルクに主砲の天蓋を撃ち抜かれ爆発し二つに折れて沈んだ)


すぐにウエールズと撃ち合いが始り,ビスマルク自身もウエールズの主砲弾二発を,前部喫水線あたりに受け大量の進水をします。が優れたダメージコントロールシステムにより何事もなかったかのように撃ち合いを続けます。ビスマルクの主砲弾がウエールスの艦橋を捉えます。戦闘、航海システムに大きなダメージを受けたウエールズは、煙幕を張り遁走しました。世界中がドイツの砲撃水準の高さ、光学照準装置の精度の高さに驚愕したのでした。


このフッド轟沈のニュースが写真入りでいち早く世界に配信され、列強諸国は建造中の新型戦艦の工事にさらなる拍車を掛けるのでした。

すでに三国同盟は締結され、工事中のここ大和艦上でも工事関係者は、大艦巨砲の威力を目の当たりにし、竣工後の大和の華々しい武勲を想ったのです。そして手を繋ぐ同盟の絆を信じ、ビスマルクと友邦ドイツの躍進を祝い、そこ此処で万歳万歳の唱和が沸き上がったのでした、、、

飛行機時代の予感
5月25日、フッドを仕留め、手傷を負いながらも強大な戦闘力を維持したままのビスマルクを、イギリス空母、アークロイヤルの雷撃機が襲います。

この襲撃で舵とスクリューを損傷したビスマルクは、スピードも10キロ(7ノット)程度、に落ち、あと僅かでフランスのブレスト、と言うところで5月27日、追撃部隊のロドネーとキングジョージ五世に捕まります。


ロドネーは我が長門と同じ40㎝砲登載の超超弩級戦艦、キングジョージはPoウエールズの姉妹艦、の最新型高速戦艦です。動けなくなったビスマルクに、”フッドのかたき、思い知れ”



ビスマルクを雷撃するソードフィッシュ複葉雷撃機、日本に比べ相当旧式
   
とばかり情け容赦なく、二艦から巨砲が打ち込まれます。キングジョージの38㎝砲、ロドネーの40㎝砲、合計200発、が至近距離からビスマルクに打ち込まれました。ビスマルクは全ての戦闘力、主砲はもとより副砲高角砲、手持ちの機銃まで、艦橋もマストも煙突も、全部破壊された末、殆ど平らな状態にされて沈みました。それにしても凄い防御力、海軍関係者は目を見張りました、、、、こうしてビスマルクは討ち取られました。

しかし本当の殊勲者はビスマルクを足止めした航空機だ、と言う人も、少数ですが確実に存在したのです。さらにその人達は足止めしたイギリス航空艦隊よりも、救援に行けなかったドイツ航空部隊の無能、を重大な欠陥だと見破っていたのです。


注 これが日本であれば航空部隊が救援に駆けつけ、ビスマルクはむざむざ討ち取られることは無かっ たはずなのですが、メッサーシュミットもユンカースも航続距離が短く、かつ空母もドイツには有り ませんでした。この頃ゼロ戦は正式採用前のテスト飛行中で間に合いませんが、急降下爆撃の九九艦 爆、雷撃の九七艦攻これらも世界最高峰の性能を誇っていましたし、双発の九六式陸上攻撃機なら陸 上から直接、ロドネー、キングジョージを蹴散らせたのです。ちなみにビスマルクを雷撃したイギリ スのソードフイッシュ雷撃機は複葉(二枚羽)の低速機、この程度の攻撃機でも英海軍の主力艦攻機 でした。海軍航空に関してはこの時点ですでに日本は質量共に世界最強でした。もっとも日本人自身 そうは思っていなかったのですが、、、


   


(ビスマルクを砲撃するロドネーとキングジョージ5世 手前先頭がロドネー)


つまりどんな大戦艦も、大和も上空を援護する航空隊がいなければ、無用の長物になる、と危惧していたのです。しかし殆どの海軍関係者は、華々しい砲撃戦と沈んだとは言え驚異的な防御力に目を奪われ、ビスマルクを止めた飛行機の殊勲には、また世界注視の中、ドイツ海軍の根拠地の目の前の海で、なぶり殺しにされているビスマルクを救援でき
ずに見殺しにしたゲーリングの航空隊の無能、、、この国と結ぶことの危うさを、大多数は気が付かなかったのです。


工事中の大和艦上では、ビスマルクの悲壮な最期に泪し、刀折れ、矢尽きてなを、撃ちてし止(や)まん、敢闘精神を称え、リッチェンス提督、リンデマン艦長、そして数多(あまた)の将兵達の冥福を祈り、黙祷を捧げたのでした。

一月後の1941年6月、イギリス本土上陸をあきらめたヒトラーは、怒濤のごとくソ連に攻め込みます。”まさかドイツとソ連が戦うなんて”

二ヶ月前には日ソ中立条約を結び意気揚々だった松岡外務大臣は職務を投げ出します。しかしドイツの凄まじい進撃を目の当たりにした陸軍は、南進論を捨て、シベリヤに攻め込もうと言い出します。満州にいる関東軍をシベリヤに進撃させ、ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと言うのです。北進論の再燃です。

作戦案も上奏されますが、天皇はこれを許可しませんでした。日ソ中立条約を一方的に破毀することを許さなかったのです。天皇に許されなかった陸軍は、再び南進論に、7月、今度は南部仏印(ベトナム南部)に進駐してしまいます。まさにだだっ子、怒ったアメリカは日本に対し、鉄屑や石油の軍事関連物資の禁輸を実施してしまいました。


油がなければ戦艦も空母も動けません。もはや戦争回避の工夫をするよりも、どの様に戦争をするか、の算段の方が重要な事案になってきました。長門の作戦室では黒島参謀がソファで仮眠しながら、徹夜で作戦立案をする姿が目立つようになったのでした、、、
そんな折、7月中旬、ゼロ戦(海軍零式(れいしき)艦上戦闘機)が正式採用になりました。航空論者達の期待を一身に背負って、、、次章へ、、、