第1章:人のせいにしていた過去
「結果が出ないのは、環境のせいだと思っていた。」
これが、私の“副業初期”を象徴する言葉だった。
上司が無理解だったから。
時間が足りなかったから。
タイミングが悪かったから。
稼げる人に比べて、自分の環境が整っていなかったから。
そう思っていた。そう思いたかった。
でも、あの頃の私は、本当に「自分で考えていた」のだろうか?
□ 努力しても報われない構造のなかで
私の副業の始まりは、「思考停止のテンプレ発信」だった。
それは、“考えなくても成果が出る”と謳われる、SNSテンプレとLINE誘導の手法。
最初は「これならできるかも」と思った。
けれど、いくらやっても反応は薄く、成果は出なかった。
そのとき私が向けた矛先は、“自分”ではなく、“環境”だった。
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「教え方が悪い」
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「発信してる人たちが有名すぎる」
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「LINEのアルゴリズムが変わった」
理由はいくらでも出てきた。
□ “人のせい”は、思考の免罪符
振り返れば、それは思考から逃げるための免罪符だった。
誰かのせいにしているうちは、自分を守れる。
「自分が悪いんじゃない」と言い聞かせられる。
でも、それは同時に“考える権利”を他人に預けることだった。
それに気づいたのは、結果が出始めてから、ではない。
完全に燃え尽きたあとだった。
第2章:反知性主義の罠
副業界隈に蔓延する“ある思想”がある。
それは、反知性主義という病理だ。
□ 「考えないこと」が歓迎される世界
副業・ビジネスの一部には、「知性を持ち込むな」という空気がある。
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難しく考えなくていい
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とにかく行動
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素直に実践すればいい
この言葉たちは、時に有効だ。
しかし、それが**“考えるな”の口実**になるとき、思考が殺される。
□ 「思考」は“邪魔者”扱いされる
かつての私も、考えすぎて行動できないと責められた。
でも今思えば、それは構造を見抜こうとしていただけだった。
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なぜこの流れでLINEに誘導するのか?
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なぜこの言葉を使うと反応がいいのか?
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なぜ“稼げた人の声”ばかりが引用されるのか?
私は、その背後にある“構造”が知りたかった。
でも、その問いは煙たがられた。
□ 「わかりやすさ」は時に毒になる
反知性主義は、「わかりやすさ至上主義」とも言える。
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小学生でもわかる言葉で
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難しいことを言わない
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パッと見て成果が出そうに見えるものだけを選ぶ
その結果、私たちは“思考しなくて済む世界”に惹かれる。
でも、それは問いを持つ力を奪われる世界だ。
□ なぜ、人のせいにしてしまうのか?
それは、**考える力を奪われた人間が最後にできる“防衛本能”**だからだ。
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思考しない構造に順応して
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与えられたマニュアルだけを信じて
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結果が出なければ、“環境のせい”にする
これは“自責”を避けているのではない。
思考停止を肯定した社会構造の帰結なのだ。
第3章:思考停止と自己責任の逆転
「うまくいかないのは、お前が努力していないからだ」
「成功しないのは、思考が甘いからだ」
「全部“自分のせい”だと受け止めるのがプロだ」
この“自責の美学”こそが、
現代の副業界隈、いや、社会全体に染み込んだ逆説的な反知性主義だと、私は思う。
□ “自己責任”は、構造を隠す麻薬になる
本来、「自己責任」という言葉は、自律的に生きるための覚悟を指すものであるはずだ。
しかし現実には、以下のような“思考停止の言い訳”に変換されている。
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構造が不公平でも、「自己責任だから」と諦める
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教える側の矛盾を、「自分が悪いんだ」と呑み込む
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再現性のないノウハウを、「自分の努力不足」と片付ける
これでは、“自己責任”とは名ばかりの責任の外注だ。
□ 「責任感」と「思考放棄」は共存する
私自身も、ある時期まで“強い自責感”を持っていた。
「うまくいかないのは全部自分のせいだ」と。
しかし、そう思うことで逆に「考える力」を失っていた。
なぜその手法がうまくいかないのか?
なぜこのタイミングで反応が落ちたのか?
なぜ“テンプレ通り”が再現できないのか?
これらを検証する代わりに、ただ「もっとやらなきゃ」と自分を責める。
これは、“反知性”の仮面を被った頑張り屋”の悲劇だった。
□ 思考停止の自己責任は、再現性を奪う
「考えずに動く」×「結果が出ない」×「自己責任論」=→ 検証不能な世界に、自分だけが取り残される。
この構造にハマると、二度と再現できない成功と、永遠に検証できない失敗の中で自分を消耗させる。
そしてついには、こうつぶやくようになる。
「やっぱり、自分は向いてないのかも」
第4章:自分で考えないことの代償
ある日、ふと気づいた。
「…俺、ずっと、誰かの言葉で生きてたな」
ブログ、note、LINEステップ、発信設計。
確かに私は“行動していた”。
でも、その“思考”は、すべて借り物だった。
□ 思考の外注は、“人生の外注”だ
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誰かの「成功事例」に憧れ
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誰かの「教材」にお金を払い
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誰かの「導線」をそのままトレースする
確かに、楽だ。失敗のリスクも減る。
でもそこには、自分の人生の“なぜ”が一つもない。
□ “なぜそれをやっているのか”が答えられない副業
コンサルや教材でよく聞かれる言葉がある。
「自分の強みを活かせ」
「ペルソナを明確にしろ」
「ストーリーを語れ」
だが、その本質はこうだ。
「あなた自身は、“何を信じてこれをやっているのか?”」
この問いに答えられないまま走り続けると、
たとえ売上が立っても、信頼が残らない。
□ 思考停止の副業は、信用の喪失で終わる
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毎回手法が変わる
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トレンドを追い続ける
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プロフィールが一貫しない
これらはすべて、“思考の軸がない”ことの表れだ。
そしてその代償は、信用と自尊心の喪失として返ってくる。
□ 思考は、“孤独”に耐える力になる
私は、考え始めたときに初めて、孤独を感じた。
「誰とも価値観が合わない」と思った。
でもその孤独は、自分の軸を取り戻すための通過儀礼だった。
「思考は、孤独を引き受けた者だけが持てる武器だ」
その言葉を胸に、私は少しずつ「誰かのため」ではなく、
「自分が納得できるための発信」を始めた。
第5章:知性主義の回復──考えることは祈り
「考えることは、祈りに似ている。」
私はそう感じている。
それは、答えを求めるためだけの行為ではない。
むしろ、“問い続けること”そのものが、人間の尊厳の証だとさえ思う。
□ 知性主義とは、構造に抗う姿勢である
知性主義とは、単に学歴や知識を誇ることではない。
それは、「誰かの言葉ではなく、自分の問いで世界を見る」姿勢だ。
宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と書いたのは、
社会の構造そのものを、自分の目で見ようとした知性の現れだ。
孫子が兵法を「勝ち方ではなく、戦わずに勝つ“構造”」として捉えたのも、
ただの戦術の羅列ではなく、思考の構造化だった。
□ 思考を持つ者は、シンプルな答えを拒む
知性を持ち始めると、私たちは「楽な答え」を選ばなくなる。
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すぐ稼げるノウハウ
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全自動で売れる仕組み
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誰でも成功できるテンプレ
これらの言葉に“違和感”を覚えるようになる。
なぜなら、その裏にある構造が「人間を軽視している」と気づいてしまうからだ。
□ 考えることは、信頼の回復でもある
誰かに売るために考えるのではなく、
誰かと“同じ問い”を共有するために考える。
それが、私がたどり着いた“知性の再定義”だった。
第6章:誰かのせいにしない社会設計とは
「誰のせいでもない。でも、構造は確かに存在する。」
この視点を持てたとき、私はようやく“他責”と“自責”の間に立てた気がした。
□ 問いを持つ人が集まる場は、“社会”になる
私は、今こうしてアメブロやnoteを書いているのも、
誰かを説得したいからではない。
問いを共有できる人とだけ繋がりたいからだ。
副業や発信の世界では、「成果を出した人」だけが正しいように語られる。
でも、それを支える構造に違和感を覚える人も、確実に存在する。
□ 誰かのせいにしないとは、“構造を引き受ける”ということ
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SNSの流行りが変わっても
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アルゴリズムが動いても
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市場の波が荒れても
そこで自分がどう選び、どう立つかを決めるのは、自分の問いでしかない。
「人のせいにしない」生き方とは、
自己責任に潰れるのではなく、構造そのものを読み取り、選択する力を持つことだ。
□ 新しい関係性、新しいビジネスは、“問い”から始まる
売れるか、稼げるかではなく、
「何を問いとして共有したいか?」から始まるビジネスが、私はこれから増えていくと思っている。
そうでなければ、AIにすべてを代替されて終わるだろう。
人間にしかできないのは、「問いの設計」であり、
それに付き合い、信頼し、共に歩むという“文脈”の構築だ。
第7章:結語──それでも考える人でありたい
「もう考えたくないんです」
かつて私がそう呟いたとき、たぶん心が擦り切れていたのだと思う。
誰かのせいにするのでもなく、
かといって全部自分の責任だと背負い込むのでもなく、
ただ、「この構造はおかしくないか」と問いたかっただけだった。
□ わかってほしかったのは、“問い”だった
私がずっと苦しかったのは、
失敗したことや、売上が出なかったことではない。
「なぜこの仕組みでしかうまくいかないのか?」
「誰が何を得て、誰が搾取されているのか?」
そういった“構造”に目を向けたとき、
誰もそれを語ろうとしなかった。
それどころか、「考えるな」と言われた。
でも今は違う。
私はもう、無理に売ろうとは思っていない。
無理に自分を飾ろうとも思っていない。
ただ一つ、「考え続けたい」
それが、私にとっての“誠実”だと今は思っている。
□ 「誰かと問いを共有できる場」をつくる
ここまでの文章を読んでくださった方がいたなら、
あなたもきっと、「考えること」を諦めきれなかった人だと思う。
だからこそ、私はこれから
“問いと信頼”を中心にした活動の場を設計していきたいと思っている。
🔗 PARKでの発信について
今後、私はPARKという場所で、「売る」ではなく「問いを重ねる」ための活動を少しずつ始めていきます。
まだ何も整っていません。
でも、私が今まで経験したこと、考えたこと、感じてきたことを、
本気で届けられる構造だけは、時間をかけて準備しています。
・テンプレじゃない、自分の構造を届けたい
・薄っぺらい売り文句に疲れた
・数字ではなく、問いと信頼で繋がる仕組みを創りたいそんな方にとって、このプラットフォームは、単なる販売サイトではなく、
**“思考を軸にした生き方の分岐点”**になるかもしれません。
「もう考えたくないんです」
かつて私がそう呟いたとき、たぶん心が擦り切れていたのだと思う。
誰かのせいにするのでもなく、
かといって全部自分の責任だと背負い込むのでもなく、
ただ、「この構造はおかしくないか」と問いたかっただけだった。
□ noteでは、構造を深く掘り下げています
このアメブロは、私の“思考と感情の記録”として綴っていますが、
**noteではさらに一歩踏み込んで、「構造的な解説」や「ビジネスの裏側」**を掘り下げています。
なぜ、人は同じ失敗を繰り返すのか?
「再現性がある」とは、どんな構造か?
誰がどのように利益を得る仕組みになっているのか?
…こうした問いに向き合いたい方は、ぜひ一度覗いてみてください。
□ 最後に──「自分で考える」という選択を
この社会は、とてもよくできている。
考えさせない構造も、自己責任論も、従属の快楽も、すべてが“効率的”だ。
でも私は、非効率でもいい。遠回りでもいい。
それでも、「自分で考える人間」として生きていきたい。
そう願う人とだけ、繋がっていたい。
この記事が、あなたにとって「再び問いを持つ」きっかけになったのなら、
私はそれ以上のことは望みません。
ありがとうございました。
また、どこかで。
