第1章:人のせいにしていた過去

 

「結果が出ないのは、環境のせいだと思っていた。」

 

これが、私の“副業初期”を象徴する言葉だった。

 

上司が無理解だったから。


時間が足りなかったから。


タイミングが悪かったから。


稼げる人に比べて、自分の環境が整っていなかったから。

 

そう思っていた。そう思いたかった。

 

でも、あの頃の私は、本当に「自分で考えていた」のだろうか?

 


努力しても報われない構造のなかで

 

私の副業の始まりは、「思考停止のテンプレ発信」だった。

 

それは、“考えなくても成果が出る”と謳われる、SNSテンプレとLINE誘導の手法。


最初は「これならできるかも」と思った。


けれど、いくらやっても反応は薄く、成果は出なかった。

 

そのとき私が向けた矛先は、“自分”ではなく、“環境”だった。

  • 「教え方が悪い」

  • 「発信してる人たちが有名すぎる」

  • 「LINEのアルゴリズムが変わった」

理由はいくらでも出てきた。

 


“人のせい”は、思考の免罪符

振り返れば、それは思考から逃げるための免罪符だった。

 

誰かのせいにしているうちは、自分を守れる。


「自分が悪いんじゃない」と言い聞かせられる。


でも、それは同時に“考える権利”を他人に預けることだった。

 

それに気づいたのは、結果が出始めてから、ではない。


完全に燃え尽きたあとだった。

 

 


第2章:反知性主義の罠

 

副業界隈に蔓延する“ある思想”がある。

 

それは、反知性主義という病理だ。

 


「考えないこと」が歓迎される世界

 

副業・ビジネスの一部には、「知性を持ち込むな」という空気がある。

  • 難しく考えなくていい

  • とにかく行動

  • 素直に実践すればいい

この言葉たちは、時に有効だ。


しかし、それが**“考えるな”の口実**になるとき、思考が殺される。

 


「思考」は“邪魔者”扱いされる

 

かつての私も、考えすぎて行動できないと責められた。


でも今思えば、それは構造を見抜こうとしていただけだった。

 

  • なぜこの流れでLINEに誘導するのか?

  • なぜこの言葉を使うと反応がいいのか?

  • なぜ“稼げた人の声”ばかりが引用されるのか?

私は、その背後にある“構造”が知りたかった。


でも、その問いは煙たがられた。

 


「わかりやすさ」は時に毒になる

 

反知性主義は、「わかりやすさ至上主義」とも言える。

 

  • 小学生でもわかる言葉で

  • 難しいことを言わない

  • パッと見て成果が出そうに見えるものだけを選ぶ

その結果、私たちは“思考しなくて済む世界”に惹かれる。


でも、それは問いを持つ力を奪われる世界だ。

 


なぜ、人のせいにしてしまうのか?

それは、**考える力を奪われた人間が最後にできる“防衛本能”**だからだ。

  • 思考しない構造に順応して

  • 与えられたマニュアルだけを信じて

  • 結果が出なければ、“環境のせい”にする

これは“自責”を避けているのではない。


思考停止を肯定した社会構造の帰結なのだ。

 

 


第3章:思考停止と自己責任の逆転

 

「うまくいかないのは、お前が努力していないからだ」


「成功しないのは、思考が甘いからだ」


「全部“自分のせい”だと受け止めるのがプロだ」

 

この“自責の美学”こそが、
現代の副業界隈、いや、社会全体に染み込んだ逆説的な反知性主義だと、私は思う。

 


“自己責任”は、構造を隠す麻薬になる

 

本来、「自己責任」という言葉は、自律的に生きるための覚悟を指すものであるはずだ。


しかし現実には、以下のような“思考停止の言い訳”に変換されている。

  • 構造が不公平でも、「自己責任だから」と諦める

  • 教える側の矛盾を、「自分が悪いんだ」と呑み込む

  • 再現性のないノウハウを、「自分の努力不足」と片付ける

これでは、“自己責任”とは名ばかりの責任の外注だ。

 


「責任感」と「思考放棄」は共存する

 

私自身も、ある時期まで“強い自責感”を持っていた。


「うまくいかないのは全部自分のせいだ」と。


しかし、そう思うことで逆に「考える力」を失っていた。

 

なぜその手法がうまくいかないのか?


なぜこのタイミングで反応が落ちたのか?


なぜ“テンプレ通り”が再現できないのか?

 

これらを検証する代わりに、ただ「もっとやらなきゃ」と自分を責める。


これは、“反知性”の仮面を被った頑張り屋”の悲劇だった。

 


思考停止の自己責任は、再現性を奪う

 

「考えずに動く」×「結果が出ない」×「自己責任論」=→ 検証不能な世界に、自分だけが取り残される。

 

この構造にハマると、二度と再現できない成功と、永遠に検証できない失敗の中で自分を消耗させる。

 

そしてついには、こうつぶやくようになる。

 

「やっぱり、自分は向いてないのかも」

 


 


第4章:自分で考えないことの代償


ある日、ふと気づいた。

 

「…俺、ずっと、誰かの言葉で生きてたな」

 

ブログ、note、LINEステップ、発信設計。


確かに私は“行動していた”。


でも、その“思考”は、すべて借り物だった。

 


思考の外注は、“人生の外注”だ

  • 誰かの「成功事例」に憧れ

  • 誰かの「教材」にお金を払い

  • 誰かの「導線」をそのままトレースする

確かに、楽だ。失敗のリスクも減る。


でもそこには、自分の人生の“なぜ”が一つもない。

 


“なぜそれをやっているのか”が答えられない副業

 

コンサルや教材でよく聞かれる言葉がある。

「自分の強みを活かせ」
「ペルソナを明確にしろ」
「ストーリーを語れ」

だが、その本質はこうだ。

「あなた自身は、“何を信じてこれをやっているのか?”」

この問いに答えられないまま走り続けると、
たとえ売上が立っても、信頼が残らない。

 

 


思考停止の副業は、信用の喪失で終わる

  • 毎回手法が変わる

  • トレンドを追い続ける

  • プロフィールが一貫しない

これらはすべて、“思考の軸がない”ことの表れだ。


そしてその代償は、信用と自尊心の喪失として返ってくる。

 


思考は、“孤独”に耐える力になる

私は、考え始めたときに初めて、孤独を感じた。


「誰とも価値観が合わない」と思った。

 

でもその孤独は、自分の軸を取り戻すための通過儀礼だった。

 

「思考は、孤独を引き受けた者だけが持てる武器だ」

その言葉を胸に、私は少しずつ「誰かのため」ではなく、
「自分が納得できるための発信」を始めた。


 

第5章:知性主義の回復──考えることは祈り

 

「考えることは、祈りに似ている。」

 

私はそう感じている。

 

それは、答えを求めるためだけの行為ではない。


むしろ、“問い続けること”そのものが、人間の尊厳の証だとさえ思う。

 


知性主義とは、構造に抗う姿勢である

 

知性主義とは、単に学歴や知識を誇ることではない。


それは、「誰かの言葉ではなく、自分の問いで世界を見る」姿勢だ。

 

宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と書いたのは、
社会の構造そのものを、自分の目で見ようとした知性の現れだ。

 

孫子が兵法を「勝ち方ではなく、戦わずに勝つ“構造”」として捉えたのも、
ただの戦術の羅列ではなく、思考の構造化だった。

 


思考を持つ者は、シンプルな答えを拒む

 

知性を持ち始めると、私たちは「楽な答え」を選ばなくなる。

  • すぐ稼げるノウハウ

  • 全自動で売れる仕組み

  • 誰でも成功できるテンプレ

これらの言葉に“違和感”を覚えるようになる。


なぜなら、その裏にある構造が「人間を軽視している」と気づいてしまうからだ。

 


考えることは、信頼の回復でもある

誰かに売るために考えるのではなく、
誰かと“同じ問い”を共有するために考える。

 

それが、私がたどり着いた“知性の再定義”だった。

 

 


第6章:誰かのせいにしない社会設計とは

 

「誰のせいでもない。でも、構造は確かに存在する。」

 

この視点を持てたとき、私はようやく“他責”と“自責”の間に立てた気がした。


問いを持つ人が集まる場は、“社会”になる

 

私は、今こうしてアメブロやnoteを書いているのも、
誰かを説得したいからではない。

 

問いを共有できる人とだけ繋がりたいからだ。

 

副業や発信の世界では、「成果を出した人」だけが正しいように語られる。


でも、それを支える構造に違和感を覚える人も、確実に存在する。

 


誰かのせいにしないとは、“構造を引き受ける”ということ

  • SNSの流行りが変わっても

  • アルゴリズムが動いても

  • 市場の波が荒れても

そこで自分がどう選び、どう立つかを決めるのは、自分の問いでしかない。

 

「人のせいにしない」生き方とは、
自己責任に潰れるのではなく、構造そのものを読み取り、選択する力を持つことだ。

 


新しい関係性、新しいビジネスは、“問い”から始まる

売れるか、稼げるかではなく、
「何を問いとして共有したいか?」から始まるビジネスが、私はこれから増えていくと思っている。

 

そうでなければ、AIにすべてを代替されて終わるだろう。

 

人間にしかできないのは、「問いの設計」であり、
それに付き合い、信頼し、共に歩むという“文脈”の構築だ。

 


 

第7章:結語──それでも考える人でありたい


「もう考えたくないんです」


かつて私がそう呟いたとき、たぶん心が擦り切れていたのだと思う。

 

誰かのせいにするのでもなく、
かといって全部自分の責任だと背負い込むのでもなく、
ただ、「この構造はおかしくないか」と問いたかっただけだった。

 


わかってほしかったのは、“問い”だった

私がずっと苦しかったのは、
失敗したことや、売上が出なかったことではない。

 

「なぜこの仕組みでしかうまくいかないのか?」


「誰が何を得て、誰が搾取されているのか?」

 

そういった“構造”に目を向けたとき、
誰もそれを語ろうとしなかった。


それどころか、「考えるな」と言われた。

 


でも今は違う。

 

私はもう、無理に売ろうとは思っていない。


無理に自分を飾ろうとも思っていない。

 

ただ一つ、「考え続けたい」
それが、私にとっての“誠実”だと今は思っている。

 


「誰かと問いを共有できる場」をつくる

ここまでの文章を読んでくださった方がいたなら、
あなたもきっと、「考えること」を諦めきれなかった人だと思う。

 

だからこそ、私はこれから
“問いと信頼”を中心にした活動の場を設計していきたいと思っている。

 


🔗 PARKでの発信について

今後、私はPARKという場所で、「売る」ではなく「問いを重ねる」ための活動を少しずつ始めていきます。

まだ何も整っていません。
でも、私が今まで経験したこと、考えたこと、感じてきたことを、
本気で届けられる構造だけは、時間をかけて準備しています。

 

PARK販売者登録ページはこちら(招待リンク)

 

・テンプレじゃない、自分の構造を届けたい
・薄っぺらい売り文句に疲れた
・数字ではなく、問いと信頼で繋がる仕組みを創りたい

そんな方にとって、このプラットフォームは、単なる販売サイトではなく、
**“思考を軸にした生き方の分岐点”**になるかもしれません。

 

「もう考えたくないんです」


かつて私がそう呟いたとき、たぶん心が擦り切れていたのだと思う。

 

誰かのせいにするのでもなく、
かといって全部自分の責任だと背負い込むのでもなく、
ただ、「この構造はおかしくないか」と問いたかっただけだった。

 


noteでは、構造を深く掘り下げています

このアメブロは、私の“思考と感情の記録”として綴っていますが、
**noteではさらに一歩踏み込んで、「構造的な解説」や「ビジネスの裏側」**を掘り下げています。

  • なぜ、人は同じ失敗を繰り返すのか?

  • 「再現性がある」とは、どんな構造か?

  • 誰がどのように利益を得る仕組みになっているのか?

…こうした問いに向き合いたい方は、ぜひ一度覗いてみてください。

👉 noteはこちら(構造と思想の記録)

 


最後に──「自分で考える」という選択を

この社会は、とてもよくできている。


考えさせない構造も、自己責任論も、従属の快楽も、すべてが“効率的”だ。

 

でも私は、非効率でもいい。遠回りでもいい。


それでも、「自分で考える人間」として生きていきたい。

 

そう願う人とだけ、繋がっていたい。

 


この記事が、あなたにとって「再び問いを持つ」きっかけになったのなら、
私はそれ以上のことは望みません。

 

ありがとうございました。


また、どこかで。