美しいものを作れる人になりたい。

大塚国際美術館で抱いた率直な感想である。

システィーナ礼拝堂の再現内のベンチで昼寝したり、モネの睡蓮に囲まれながらボーッとしたりするためにわざわざ徳島くんだりまで足を運んだが、十二分にその価値はあったように思う。


当方は美術について全くの素人である。が、全くの素人が「イイな」と思えるものが美術であってほしいとぼくは思うので、それはこの際問題としないでおきたい。

正直、宗教画は見ていて別段楽しくなかった。言ってしまえば二次創作で、しかも委託されたものが多いとなると、いよいよ技術的な面しか見どころがないように思えた。

その点、近代、現代の絵は一次創作が多く面白かった。

特にモネの絵は一際美しかった。

どの絵も明るく、美しいものを美しいと感じた通りに描いているように見えた。

「イイな」と感じたその空間を、光景を大事にしているのだろうと感じられた。

「印象派」と云われるのも大変に納得できた。見たままを書くのではなく、美しいという感覚をキャンバスに落とし込んでいる用に見えた。

一生の年表のようなものを見たが、順風満帆とういうわけではなかったらしい。

なんなら奥さんが亡くなったあたりでは自殺未遂までしている。

にもかかわらず、美しさを感じる感性を失わず、アウトプットし続けたことは本当に尊敬できる。仕事人である。

本当に、仕事人である。

曰く奥さんが亡くなって以来、依頼以外では女性の顔をろくに書いていないらしい。

ラ・ジャポネーズではあんなに克明に表情まで描いていたのに。

有名な作品に「日傘の女」がある。後妻をモデルに書いた絵らしい。

ただし、顔は誰だかよくわからない程度に描かれている。

きっと確かに「イイな」とは感じたのだろう。太陽からの光、風になびく草、服。そして穏やかに佇む女性。

ただ、イイと感じたその光景に佇むのは、その女性である必要は無かったのだろうなと強く感じた。

昔亡くした奥さんと、今こうしていられたらどんなに良かっただろうか、という憧憬を描いているように見えた。

描いている最中、ほほえみながら泣いていなのではなかろうかとすら思えてきて、悲しい気持ちと同時に、それをアウトプットしきるパワーを素直に尊敬した。

これが美術館で絵を見るという体験なんだな、などと考えた。

端から端までどこぞの受け売りなような気もするが、以上が大塚国際美術館で抱いた感想である。

その他雑感
・ファム・ファタールが悪女として書かれてるの、勝手に惚れて勝手に運命を狂わされたと思った男たちの悲しい逆恨みなんじゃなかろうかなんて思った。(逆恨みする側なのでちょっとわかる)(ぼく自身はそこまで逆恨みしているわけではないのでちょっと哀れんでしまった)
・絵は原寸大に限る。受ける印象が違いすぎる。もし教科書で雰囲気を知った気になっているのであればそれはおそらく間違いなので見に行ったほうが良い。陶板ではなく本物を見たら同じことを思うのかもしれないと思うと少し期待してしまう。
・天井に絵書くの禁止。首が痛くなるので。ミケランジェロさんよろしくお願いします。
・レンブラントは自画像描きすぎ
・ピカソは思ったよりは意味不明ではなかった。きっと理解は出来てないんだろうけど。キュビ。
・現代芸術みたいなのはやはり意味不明だった。なんもわからん。
・わかるように書いてくれるモネはやはり偉い(好き)
・裸婦画の部屋の壁が真っピンクなのはマジで笑った

米津玄師のLoserって曲あるじゃないですか。
ハチさんの曲ずっと好きだし、年代的に歌詞もすっごい刺さってて好きなんですけど。

あの歌詞の中で「すっぱい葡萄」ってワードが出てくるんですよ。

「踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを端から笑う阿呆」
「デカイ自意識抱え込んでは もう磨耗 すり減って残る酸っぱい葡萄」

って流れで出てくるですよ。

んで、自分恥ずかしながら先日まで「すっぱい葡萄」ってイソップ寓話を知らなかったんですよね。
当然それが元になってるらしい「sour grapes」が「負け惜しみ」って熟語になってることも知らなかったんですよ。

知るまではなんかこう、韻のためにいい感じのワードを見繕ったのかなぁなんて思ってたんですけど、
まぁそんなわけなかったですよね。すまん米津。

デカイ自尊心が故に失敗を恐れ何も行動しないのに、そのくせに頑張っている人を嗤い、
デカイ自尊心が故に何も為してない自分とのギャップから「頑張ったってしょーがないじゃん」って負け惜しみを言ってる

みたいな感じでしょうか。
ニュアンスは理解できてても、明確に「負け惜しみ」だと分かってないとちょっと重さが違いますよね。
タイトルLoserですしね。なるほどねという感じ。

あとこれは歌詞では考慮されてるか微妙な気がするんですけど、「すっぱい葡萄」って恐らくはすっぱくないんですよね。

きつねが食べたかった葡萄、たわわに実った秋の味覚、きっと甘いんですよ。
誰も食べてないんでわかんないんですけど。

酸っぱい葡萄も甘い葡萄も噛み分けて、その経験を元にあの葡萄はきっとすっぱいよなんて言える人になりたいわね。

ネタバレがあると思います。気にせず書くのでご容赦を。

 

 

昨日レイトショーでJOKERを見てきました

 

「いかにして狂気の猟奇殺人鬼は生まれたのか!」みたいなフレーズを見て見に行った気がするんですよ

 

何の媒体でそんな宣伝を見たのかは思い出せないんですけど、映画を見た限りでは少なくとも「狂気」ではないですよね、っていうのが感想です。

 

アーサーは全く狂気ではない、むしろ狂っているのは社会であり、観客である我々なのではないかと考えさせられるような映画だったと思います。

 

すっごいありきたりそう。w

 

 

ルサンチマンを自称するくらいには世の強者に怒っているぼくとしても、さすがにここまでの怒りは持ち合わせていないというか。

 

アーサーは別に強者に対して理不尽に怒ってるわけじゃないですよね。馬鹿にされて、のけものにされて、初めて怒っている感じがある。

 

助けてくれないからとか、羨ましいからだとか、そういうクソザコナメクジの思想ではないんですよね。

 

というかここまでの不遇が重なってなお誰からも手を差し伸べられずにいたら、誰しもこうなりうるのでは?くらいの気持ちです。

 

「あなただったかもしれない物語」だとさすがに刺さらなそうだけど、「あなたの隣人の物語」くらいなら刺さりそう(?)

 

 

さておき持病の発作をなかなか理解してもらえないことが本当にあらゆることの遠因ですよね。

 

いやでもこれはしょうがないと思うんですよね。怖いですもん。何がおかしい!?ってなりますもん。

 

障害を持った方の介護施設でアルバイトしてたことがあってこう、理解はある方だと思うんですよ。

 

ヘルプマークを見かけたら席譲るし、何か主張がありそうならなるべく耳を傾けようとは思っていますよ(ウェインさんみたいな言い回しになってしまった)

 

ただ、そういう理解があっても怖いものは怖いし気持ち悪いものは気持ち悪いんですよね。

 

怖くないんですよ、気持ち悪いかもしれませんがしょうがないんですよ、って啓蒙するのはすごく良いと思うんですよ。

 

結果当事者たちだけではなくそうでない人たちも生きやすくなる気がしますしね。

 

ただ、たぶん、全ての人の蒙を啓くのは無理なんですよね。

 

だから、国やら自治体やらが少なくとも最低限を保障する機構として必要になってくるわけじゃないですか。

 

でもその援助まで打ち切られてしまった。

 

いや~怒る。怒りますわこんなん。

 

 

あとは「誰も他人の気持ちなんて考えちゃいない!」みたいなセリフが印象的でしたね。

 

すごく風刺的というか、現代社会に警鐘を鳴らしてそう。いやほんとに。

 

これについても、アーサー自身は頑張ろうとしてるんですよね。コメディをやろうとする上で。

 

頑張って考えた末、相手の気持ちが理解出来ているかはおいといて。

 

いやほんとに難儀な人生よな、相手の気持ちが理解できないが故に夢は実現しないし人からは疎まれるし。

 

 

ぼくとしては「こういう問題があるな」って認識したら「こうすれば少しはよくなるんじゃないか」くらいのことは書きたいと思ってるんですけど

 

JOKERで感じた社会の問題点(障害者への理解やら社会保障やら)に関してはほんとに全く提案すら思いつかないですね。

 

一つだけ言えるのは、障害者に対しては十把一絡げな対応じゃほぼ全く意味がないだろうなってことですかね。

 

何も言ってないに等しいんですけど。

 

人、日本人、マニュアル大好きじゃないですか(十把一絡げ)

 

いや何も障害者に対してだけの話じゃないんですけど、人と会話するならその人を観察してその人への対応を考えて行動するべきですよね。

 

何がいいたいのかわからなくなったところでやめにします。

 

 

JOKER、面白かったけどそんなにオススメはしません。爽快さはほぼ無いです。

 

考えるのが好きな人は見たらいいんじゃないでしょうか。

ツイッターで見た言論に物申したくなったので書きます。

 

いや反論というか、認識のズレが有るなと思ったので。

 

マイノリティっているじゃないですか。

 

流行りなのはセクシャルマイノリティの話題だと思います。

 

ぼくは本当に、勝手にやってくれ以外の感情がないんですよね。

 

ぼく自身は性自認が男で女の子が好きないわゆる普通のパターンです。

 

なのでマイノリティの方々の気持ちは一ミリも理解できないんです。

 

だから差別しよう!とは思わないんですけど、みんな受け入れようね!みたいな風潮もあんまりよくわかってなくて。

 

何故かっていうのも難しいんですけども。要は自認やら嗜好やらがマジョリティと違うってことじゃないですか。

 

例えば15や16の娘を好きになるのはロリコンと誹り病気と断じて、誰に危害を与えずともバレたら糾弾されるような世の中じゃないですか。

 

いやこの前提が違うならこの話はここでおしまいなんですけども。

 

時代が違えば別に犯罪でもないし、なんなら生物的にはその方が正常な気がしますよね。(諸々のデータは省きます)

 

つまり何が言いたいのかっていうと、別にロリコンを擁護したいわけじゃなくて、ただ違和感があります。ってだけです。

 

確かに、法律のせいで色んなことが出来ないってのは不便なんだろうなぁとは思いますよ。

 

それで法を変えようと動くのは素晴らしいことだとは思いますよ。

 

ただ、数が少ないってことは理解してないといけないんじゃないかなと思うんですよね。

 

誰が影響を受けてどんなメリット・デメリットがあるのか考えて、最大多数の最大幸福を実現しようと思った時、国がどんな挙動をするのか。

 

国に限らず地方自治体やら企業なんかもそうでしょうね。

 

ハサミは右利き用のものがたくさん売られていますし、コンドームはノーマルなサイズのものがたくさん売られているし。

 

仮にぼくが自分を石油王の息子だと真に思い込んだとして、現実とは違うのでおそらくは思い込みを治そうと病院に閉じ込められるでしょう。

 

ぼくとしては石油王としての自認を肯定して、同様の生活を送れるように国あたりに保護してほしいんですけどね。

 

いやあのほんとに勘違いしないでほしいんですけど、ぼくは別にマイノリティの方々が嫌いなわけじゃないんですよ。

 

ただ気持ちが想像できないのと、これからもどうしたって苦しい戦いは続くだろうなって思う、それだけです。

 

"セクシャルマイノリティ"の種類を諸々ごちゃごちゃに混ぜて話してるんでツッコミどころ満載でしょうが、趣旨はそこではないので。

 

多分、なんとなく、ぼくは何かが気に食わないんでしょうね。じゃなきゃ興味も無いことでモヤらないと思うので。

2って書いたけど、なんというか、書きたいことは一緒なんですけど内容は違いそう。(?)

 

内容を端的に言うと、今何を考えて生きてるかってことです。メモです。

 

今何を考えているかを書くにあたって、その経緯もついでに書きます。

 

正直、ぼくはかなり良い家庭に生まれました。学歴こそ無いけど別に頭悪くないしお金も心配しないし、虐待なんかも全然ないし。

 

そこで、幼い頃から父親に言われ続けて来たことがありました。

 

「『何故』を常に考えろ」と。

 

これがなかなか難しくて、まぁまぁ理系な脳みそになったのはこれが原因だと思いますね。結局文系なんですけど。

 

そんなこんなでいろんなことの理由を考え続けて生きてたわけですよ。

 

そんなある日、小学生くらいのとき、考え始めてしまったんですよ。

 

「なんで生きているのか」を。

 

自分に限らず、あらゆる生命が生きている意味がわからないんですよね。

 

「人のため」とか「子孫を残すため」とかそんなんが理由になるはず無いじゃないですか。

 

順番が逆なんですよね。なんで人のために生きなきゃアカンねんって話ですよ。

 

いくら考えてもわからないやら、誰かに聞くのもこっ恥ずかしいやらまともな答えが返ってこないやらで辟易して

 

一応の結論を出したんですよ。

 

「意味も理由も無い」と。

 

これがなかなか正鵠を得ているように思えて、四半世紀の結果出来た青い顔のぼくとしても未だに覆せないでいます。

 

それでまぁなんというかちょっと荒れたというか、しょーもな。って思ったんですよね。

 

人生、意味ないし。

 

そんで意味ないしなぁ~って気持ちのまま大学生くらいまで生きてたんですよ。めちゃくちゃ怠惰に。

 

そんなある日、いい加減意味ないし働きたくないし死ぬか~?って思って改めて生きる意味を考えたんですね。

 

まぁ、で、一般解は案の定見つからないわけですよ。

 

でもちょっと大人になったぼくは気づいたんですよね。別に一般解はどうでもよくないか?って。

 

いわゆる「現代的自我の目覚め」ってやつですかね(おぼろげな現文の授業の記憶)

 

で、じゃあぼくはぼくの人生をどう意味づけるかなぁと思って考えて、別に意味はいらんなって思って。

 

なるべく楽しく人生を謳歌出来ればなんでもいいな、っていうのが今の所の結論です。

 

なんでこう、楽しいことしかしたくないですね。

 

ある程度しんどくしないと楽しさの次元を上げることが出来ないのがジレンマ。

 

楽して頭と体と顔のいい人間になりてぇナァ

夏が終わっていくのを感じますね

 

セミの死骸、跨ぐときはファイナルアタックが来るんじゃないかとビクビクしながら過ごしています。

 

セミの屍を越えてゆけ

 

 

 

 

今朝、のんびりツイッターを眺めていたら元カノの今カレのツイートがRTで流れてきたんですよ。

 

そのアカウント自体はツイート内容が目に入り切らないうちにブロックしたんでどうでもいいんですけど。

 

なんだか感慨深くなってしまって。

 

今カレ君を好きになっちゃったからごめんなwってフラれてからそろそろちょうど一年くらい経つんですよ。

 

別れた時期もこう、鎌倉時代の始まりとか同じで解釈に差があるっぽいんですけどね。

 

夏には実質終わってた説、9月に会ったのが最後説、11月にしっかり別れ話したのが最後説。

 

ぼくは根が童貞というか、基本的には形式を重んじるというか、

 

「別れ話を行う」→「両者合意の下、別れる」→「次と付き合う」

 

っていうフローをなぞるのが普通なのかと思ってたんですけど、世の中そうでもないっぽい。

 

頼朝が守護地頭を設置したあたりとおんなじですよね。

 

実質「そう」ならもうそれは「そう」なんですよ。

 

征夷大将軍になったらそれはそれでだけど、それ以前にもう実質「そう」なんですよね。

 

それでも、実質「そう」でも、やっぱり正式に征夷大将軍として認められてから行動しました、って体にするのが礼儀かなってぼくは思うんですよ。

 

だってその方が誠実じゃないですか。諸々に対して。これでモヤるのぼくくらいなのかなぁ

 

今はもう1185年に鎌倉幕府ってするのが主流っぽいし、なんだか置いていかれている感がありますね。

 

 

まぁぼくはもう征夷大将軍になってから一年くらい守護地頭置けてないんでただただ力不足なだけですねぇ。

 

歴史好きな人はごめんなさい。クソ適当なこと書いてます。年号とかに解釈の揺れがある面白い例があれば教えて下さい。

 

 

 

てかぼくはぼくでガッツリ倒幕しようとしているし人のこと言えた義理じゃないか

 

実質新政府出来てから大政奉還だもんな。時期がかぶるのはもう仕方ないのかなぁ...

掲題の通りです。

 

いや、面白い記事読むと憧れませんか?自分もこんな記事かけるようになりたいなと。

 

そんなあなたにはこれ!って販促が続くとかはないです。今ぼくが思ってることです。

 

別に書けばいいじゃんと思うじゃないですか。だから書いてるんですけど、なんかちょっと違うんですよね。

 

面白い記事って、めちゃくちゃに面白い体験をした記事だから面白いのかっていうとそうでもなくて、

 

こないだ読んだヒプマイの記事(https://tehu-pipipi.hatenablog.com/entry/2019/08/28/195219)とかもう

 

体験でもなんでもないけどマジで面白くて本当に好き。友達になりたいなと思う。

 

ああ。今書いてて分かったけど、自分の思う「面白いブログ」って友達になりたいと思うような

 

人柄が滲み出てるような気がしてきましたね。なるほど。

 

実体験としていろんなことを経験してる人と友達になりたいし、ヨコハマディビジョンの交通の便を案じる人と仲良くなりたいし

 

同じ趣味だったり頭が良かったりする人とはどんどん繋がっていきたいわよね。

 

これ、一般的な感性なのかは分からないけど、自分が好んで見てるクイズノックの記事とかゲーム解説の記事とか、

 

友達になったら絶対楽しいなって人ばっかりだなと気づけたのでこの記事はこれでよしとします。

 

その点「怒りと悲しみの備忘録」は良くないですね...まいっか...

ぼくの哲学をメモっておきます。

 

「楽しい」ことこそがいちばん大事な価値です。

 

人生を通しての楽しさを最大化することを目標に生きています。


楽しむためには教養が必要だし、我慢も必要だし、我慢しないことも必要だよね。

 

なんで今楽しくないのか。ちゃんと見極めて分析して丁寧に解決しよう。

 

娯楽って、過去人類が持ってなかった時代って無いと思うんですよ。

 

なんか色々書きたかったはずなんだけど、なんかまとまらなくなってしまった。

 

でも、いつか自分がふらついたとき、この記事を読み返せたらいいなぁ。