旧友が遺していってくれたもの♬

 

1992年の6月、私は

西シベリアのエカチェリンブルクを

二回目に訪ねていました。

 

最初はバレエの研修にいらした

方々の通訳としてでしたが

 

その時は、より長期に

当時日本のある電機メーカーが

電話の交換機を設置する契約を

エカチェリンブルク市と

結ぶ過程で、当地に

現地事務所を開く、ということで

そのお手伝いに向かったのでした。

 

二回目に訪れた

エカチェリンブルクでは

6月ということで、既に

桜を大きくしたような

真っ白な林檎の花が

咲き乱れる最高に美しい季節でした

 

 

しかし私がハバロフスクから着いた

その日のエカチェリンブルクには

なんと、季節外れの雪が

降っていたのです!

 

正にこれからの生活の

象徴となったような初夏とは

思えぬ寒さでした...

 

現地事務所といっても

何もない部屋を借りてあっただけで

正に何もない、部屋、だけ

お茶碗のセットだけでもと

国営商店に買いに行ったことなど

思い出されます。

 

数年前に某独立行政法人の

ロシアCIS課でニュースを書く

仕事に採用された際の面接で

主幹の方(私より年下で当然

ロシア語を始められたのも

後の方ですが)

 

「貴方は〇社の現地事務所に

おられたから、支局の

お仕事は分かっておられるでしょう?」

と言われたのですが、まさか

何もない部屋で、お茶碗を買っていた

とは言えず、(ああ、やはり、

ご存知ない、のを良いことに!)

 

「はあ、まあ、その何もない

時代でしたので、まあはい、」

などとお茶を濁して逃げを

打ったのですが...

 

モスクワ事務所に報告するのも

翻訳するにも、紙がなかったのです!

モスクワ所長の方が見えたときには

「すみません、紙と日本語の辞書を

頂けませんか?」と言って

所長を唖然とさせたのですが

 

私とロシアの方も

所長の姿を見て呆然、唖然!

冬のウラルに、なんと

帽子を被らずいらしたからです!

 

これは自殺行為に等しい事でした

 

ですからプーチン大統領が

どんな極寒地の訪問でも

オーヴァーは着ても

決して帽子を被らないのは

驚きです!どうなっているのでしょう?

 

一度、ムルマンスクだったかで

海軍を前に挨拶された際

マイナス20~30℃でも

無帽でいらして

それを見た現地の政治家の方が

 

「大統領の命を危険にさらす

犯罪だ!」と云い出し

プーチン大統領が笑いながら

「軍の皆が雪の中にいるのに

自分だけ帽子は被れない...」

まあまあと宥めたの見ましたが

 

 

初夏に雪が降った

エカチェリンブルクも

今は高層ビルの並ぶ

大工業都市として生まれ変わり、

大阪にならねば、エカが

万博を開催していたことでしょう

 

そしてそのほうがずっと良かった

と思いますが...

 

私もこの辺りで写真を撮った市内の

イセチ川河岸、当時は当然

バックに高層ビルはありませんでした

 

 

しかし当時一番私に厳しかったのは

物がないことよりも

お湯が三週間に一週

出なくなることでした。

 

正に最後のお湯が水道の

蛇口からしたたり落ちる音は

恐怖そのものでした。

 

 

それでも当時のエカには

今親しくしている

ウラル音楽学校の打楽器科の

レオニード・クミーシェさんの

学友で兵役同期で

当時のフィルハーモニーの

芸術監督だった友人がいたので

随分と援けて貰いました

 

そういえば彼は

エリツィン政権の国務長官で

同郷のエリツィン大統領の

側近として権勢を振るい、

「灰色の枢機卿」の異名を取った

ゲンナジー・ブルブリス氏

幼友達でした。

 

当時の私はロシアへの憧れは

芸術方面に限られており

ブルブリスさんが、ソ連解体の

筋書を書いた方で、

 

今もプーチン大統領が

抑えた怒りをこめて

語られることもある、あの

1991年12月7-8日に

今は「ベロヴェーシの森の密約」

と呼ばれ、

 

そこでエリツィン、ウ大統領

クラフチュク、ベラルーシ最高会議長

シシュケヴィチの3首脳による

ソ連解体の筋書を作った

張本人とされている方とは

全く知りませんでした。

 

未定義

1991年8月クーデターの際

エリィツィン氏の傍らに控える

ブルブリス氏(右)

 

ブルブリスさんが「灰色の枢機卿」と

言われたのは、佐藤優さんんが後年、

これまで面識を得た中でも

最も頭が良い、と評されたという

彼のこのようなエリィツィンの影での

活躍からだったそうです。

 

 

しかし音楽家だった友人達は

ブルブリスさんとは単なる

幼友達であり、1992年に彼が

失脚した際には、集まって

「ゲンカ(エフゲーニーの愛称)が

失脚してしまったんだってさ、

奥さんに電話して慰めよう!」

「そうだ、そうしよう!」

 

で、あとで、

「あいつ、なんだか

態度デカくなったな~」

などと皆で集まって言って

いました。

 

そのブルブリスさんと旧友は

2年前の6月に相ついて

この世を去りましたが

 

プーチン大統領は勿論

ブルブリスさんについては

一言も言及されませんでした。

 

ソ連解体の張本人であり

現在のウクライナ紛争の

元凶を作ったともいえない

こともない、彼のことを

どう考えられていたかは

想像に難くはありません。

 

私も直接お目にかかったことは

勿論ありませんが、ただ

エリツィン大統領の来日が

決定した際には、大勢の

代表団が来るということで

通訳がたくさん必要だ、と

 

当時下手な駆け出しだった

私にまで声がかかり、

 

友人から

「ゲンカが今度東京に行くから

通訳の一団に入るなら

彼に挨拶してくれよ」

と言われて

 

イザという時のためにグレーの

ミニワンピースを買ったのですが

結局エリィツィン大統領の来日は

急遽中止され、そのワンンピースは

仕方なく以来

「エリィツィンワンピース」

などと呼んで使っていました

 

 

でもそれから32年、

同じくエカチェリンブルク出身だった

エリツィン元大統領も、

ブルブリス氏も、旧友も

既に他界...

 

私が仕事をした電気メーカーも

ロシアからは当然撤退しています

 

 

唯一旧友が私に遺してくれたのは

彼の兵役仲間で音楽学校の同期の

レオニード・クミーシェ先生との

交流になりました

 

偶然私も小さい頃マリンバの

安倍圭子先生に習っていたため

彼らを喜ばせたくて

先生の楽譜を送ったのが

きっかけだったのですが

 

今、クミーシェクラスでは

安倍圭子先生、クミーシェさんが

自分で買って帰った

野口先道子生の楽譜で学んだ

若い生徒さん達が長足の進歩を

遂げ、どんどん上達しています。

 

エカチェリンブルクに居た頃の私は

余りに生活が大変だったことも

ありますが、それより前に

自分のことばかり考えており

 

日本とロシアの間を繋ぐために

どんな小さいことでも

できることをしよう、

などという気持ちは

お恥ずかしいことに、

まるでなかったのです!

 

それどころか、

ここにはもう二度と来ない

この地の名前すら二度

聴きたくないという思いで

帰国した位でした

 

でもそれから32年経った今

亡くなった旧友の母校

国立ウラル音楽専門学校で

彼の友人クミーシェ先生が教える

打楽器クラスの若い生徒達

 

キリール君やイゴール君、

ザハール君、サーシャ君達と知り合い、

 

 

 

 

彼らが演奏してくれた

野口道子先生編曲のバッハ

「トッカータとフーガ」

 

 

亡くなった旧友が芸術監督を

務めていたあのフィルハーモニーの

大ホールで、安倍圭子先生が考案し

世界に広まった5オクターヴマリンバが

この3月初めて演奏され、

 

 

3人のロシアの若者による

清新なバッハが響き亘ったときは

胸に迫るものがありました...

 

 

今年の6月のエカチェリンブルクに

私を迎えたような雪が降ることはなく

 

真っ白な林檎の花が咲き乱れる

美しい初夏を迎えていることでしょう

 

 

 

私が当地を訪れることはもう

二度とないかもしれませんが

 

クミーシェ先生の生徒達の

成長と活躍は、遠い日本から

見守り、日本から何かが必要な際は

私でも何かできることがあれば

喜んでさせて頂きたいと

思っています

 

 

クミーシェ先生にもそろそろ

今日はお返事のメールを

書きたいと思います

 

32年前エカに旅立つ頃

良く聴いていた

岡村孝子さんの名曲

「オー・ド・シェル(天の水)」

に今日偶然行き当たりましたので

最後にお送りしたいと思います