ジャコモの手紙ですが

長すぎたので

最後の箇所をこちらに

別にしました

 

私がジャコモの手紙と

出会ったのは、2002年だったと

思います。

イタリアの現代史について

書かれた本を探していて

概説本よりも、人々の

実際の声に興味があったので

借りてみましたが

 

のっけから数頁読んだだけで

その余りの悲しさにノックダウン、

「こんなものは到底読めない...」

と放り出し、翌日返そうと

職場にもっていってデスクに

置いておいたのですが、

 

やたら、気になってしまい

とうとう家に持って帰り

ソファーに座り、

ティッシュペーパーを

横に於いて、覚悟をきめて

読みだしました

 

抵抗運動に参加して、

ファシストに捕らえられ、

処刑される直前、

人生の最後の時に、文字通り

命を懸けて書かれた手紙を

最後まで読まないのは、

大変な失礼にあたる、と

気が付いたからでした

 

多くの手紙は、カトリックの

イタリア人らしく、

最後の審判を前にした思いや

両親を遺していく許しを乞い

忘れないで、と書かれた方も

また、遺して行く幼い娘に

 

「勉強してね、ママが

天国から見守っていてあげます」

 

こう書いた若い美容師の

ローラさんの遺書などは

読んだり観たりしては

泣くのが大嫌いな私でも

涙なくしては到底

読めませんでした

 

幼い娘を遺して行った

ローラさんや

母を独り残して行かねば

ならなかったジャコモ達

 

彼らに対して今、

恥ずかしくは

ないのでしょうか?

西側、EUよ!

 

 

そんな中で、最後のほうに

Uの順番になって出た来た

ジャコモの手紙は

全く性質が違うもので

ほっとすると同時に

 

国家とは僕たちのこと

 

皆が知ろうと

しなかったばかりに

全ては起こってしまった

のではないか!?

 

という言葉を読んだときには

そうか!と目が覚める思いが

しました!

 

そして何でこんな優れた

青年が死ななければ

ならなかったのか?!

と思い、彼のことをもっと

知りたくなってしまいました

 

そしてあれこれ調べてみますと

彼の手紙をまとめた小さな本が

あると知り、是非

入手したいものだと

思うようになりました。

 

どうすべきか、と思ったのですが

一冊だけあった京都の

私立大学図書館で借りるより

現地イタリアに行って

実際にジャコモの生きた街を

みて、本を貰ってこようと

思いつきました。

 

でも私は子供時代から

古代ギリシア狂でしたので

イタリアには正直なところ

興味をもったことがなく

 

ローマの彫刻なんて

ギリシアの模倣ばかりで

全然だめ!

だいたい、トロイアから

逃げた英雄アイネイアスの

創った国なんてね、

 

いかにも美と愛の女神の

息子が創った感満載で

現生肯定的じゃないですか?

という感じでした

 

イタリア食文化ブームにも、

半身に構えて全く興味なし

 

ところが、ジャコモ青年に出会って、

その興味ない国を訪ね、

興味ない言語をやり

興味ない街に住むことにも

なってしまいました

 

毎秋になると、9月は

モスクワを思いますが

 

10月には一転、

イタリアのモデナと

パルマが思い出されます

 

ジャコモの人生での

山場の出来事が集中した

ときでもあり、

 

イタリアに行くとしたら

どうしてもこの時期に

なってしまうからだと

思います

 

私はジャコモを知って

イタリアの思想や

生き方、信念を大変

尊敬していますが

 

イタリアの風土が好きか?

と言われると、正直なところ

涼しいより寒い処が好きなので

う~ん、という感じです

 

始めてモデナの有名な

市場にいったときなども

「何でこんなに物があるんだ?!」

と、頭に来てしまったほどでした

 

ただ唯一言えることは

ソ連での経験がなかったら

その後の日本での経験が

なかったら、

 

ジャコモと出会っても

それほど、共感はしなかった、

かもしれないと...

 

あまり嬉しくなかった

ソ連と日本の社会での経験が

ジャコモと出逢わせてくれた

のかもしれません

 

 

モデナの大聖堂の隣にある

ギルランディーナという塔の

鐘が朝に晩に夕べに鳴り響く、

 

 

イタリアの秋の朝や晩を思いだすと

このところ、ロシアに集中し

ジャコモのことを想って

いなかったなぁと、ちょっと

反省をしています

 

 

 

でも決して忘れたわけでは

ありません

 

そういえば

この手紙のロシア語版も

作ったのですが

 

(今のこの瞬間まで

御蔵入りにして

全く忘れていました!)
 

読んでくれる人が

いつの日にかいらして

下さるでしょうか?

 

という前に、自分の

ロシア語大丈夫か?

読めるロシア語になって

いるのか?

それのほうが余程

問題ですね?(;´∀`)

 

(多分昨今の機械翻訳

みたいな文章になっていると

思います。)

 

そんなジャコモの手紙ですが

 

最後は、こう続いています

 

~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 

「そして、思い出して欲しい、

君達は男であり、義務がある

ということを

 

自らの権利を行使する気に

ならずとも、

自身の利害に気を配り、

子供達や、愛する人々の

権利に配慮する義務があるのだ。

 

考えてみたことが

あるだろうか?

 

今後数か月で僕達の国、

そして僕達自身の運命が

決せられるということを。

 

自らの意志を主張する術を

知っていたなら、

僕達の志はどれほどの

ことを成せることだろうか!

 

望ましからぬ状況に

出くわすときでも

それに対応しなければ

ならないのは僕達なのだ、

 

為すべきことは多く、

そのためには

考え抜かねばならない

 

そして、いつか自分自身に

尋ねてみて欲しい

 

心に懐く人生への

真の理想に照らし合わせて

 

どのような国家の在り方が

我が国に相応しいと

思えるのか?

 

自ら納得し、相手にも

納得してもらえるよう

準備せねばならない

 

それは他人を打ち負かすこと

ではなく、まして

諦めることでもない

 

今は圧制者に対して

戦うことが必要だ。

 

(連合軍と休戦したイタリアは

その瞬間からドイツ軍の敵と

なり、撤退していくドイツ軍は

レジスタンスを恐れて

市民達に非常に過酷な戦いを

しかけていました)

 

これが僕達全員の

第一の義務だ。

 

だが既に述べてきた問題の

解決に向け、継続的に備えつつ

僕達の身に降りかかってきたこと

全てが、繰り返されぬよう、

備え、勤めること、

それが肝心なことだ

 

長くなってしまったが

ここで終える

 

多少不明瞭なところも

あると思うが、

心のままを述べた。

 

それを詫びつつ...

共に健闘を!」

 

ジャコモ・ウリーヴィ

Giacomo Ulivi (1925-1944)

 

(パルチザンらしく年上にみえるよう

髭をはやしています)

 

 

この手紙(13枚の10cm程の紙片に

書きつけられたもの)は

彼の死後、潜伏中の部屋にあった

蔵書の頁の間から発見され、

 

その内容に心打たれた友人や

教師の努力で、他の手紙と共に

戦後すぐに出版されました

 

 

故郷パルマの大聖堂(ドォーモ)より

ジャコモが愛したモデナの

ドォーモとグランデ広場

 

 

ジャコモ・ウリーヴィは

1944年11月10日

モデナのグランデ広場で

レジスタンスに加担したとして

2人の若者と共に銃殺されました。

 

 

あと残るのは

ジャコモのお母様への

本当の遺書だけとなりました

 

 

尚、ジャコモの手紙が

収められている

「イタリア抵抗運動の遺書」は

 

1983年に東京外大の

故川島英昭先生率いる

イタリア語科卒業生の

方々が訳され、

 

ジャコモの手紙も

古賀弘人先生の名訳で

今も読むことができます

 

 

(私の訳はパルマの

レジスタンス研究所にある

オリジナルから少し加えて

訳させて頂いております。)

 

18才の走り書きで、

ジャコモは後で読んだら

もっと直したかったかも

しれませんが

 

実際には友には、とても

言えなかった、でも...!

そんな彼の思いが

こもっている紙片の言葉を

 

最後まで、共に

読んで来て下さり

本当に有難うございました!

 

 

"No, non dite di essere scoraggiati, 

non dite di volerne più sapere!

 

Pensate che tutto è successo perché non ne avete più voluto sapere!"