1988年東京都豊島区に生まれる。

この頃の記憶はなく、物心ついた時には神奈川県相模原市に住んでた。

近くに幼稚園一緒だった2家族がいて、よく3家族でご飯行ってた思い出。

この頃は楽しかった。


幼稚園年中か年長の時に隣の座間市に引っ越した。

幼稚園ではいじめられたりもしたけど、無事卒園した。

小学校に入学。

一年生の時は人見知りが激しかった。

そんな中、家が近くて仲良くなったO君。

一回り大きく、初めてできた友達だと思う。

O君の家はO君含め野球一家だった。

父、兄は野球。母、姉はソフトボール。

当然O君も近所のスポーツ少年団に入っていた。

そして僕も一年生の冬休みに同じスポーツ少年団に入った。


最初は野球のルールなんか全く分からなかった。

コーチのおじさんとキャッチボール。

取れるように優しく投げてくれた。

キャッチするとおじさんはニコニコしながらアウトーって言った。

ドッチボールしかした事がなかった僕。

アウト=悪い事のように思ってしまい

おじさんが投げたボールを避ける

走って取りに行く

おじさんに投げる

おじさんが取る

アウトーって楽しそうに言う。

いま思うと野球の楽しみ方何一つ合ってなかった


なにが楽しくて続けられたのかわからないけど、3年生くらいになると、ルールもある程度覚えて4年生以下の試合には出れるようになった。

この頃は学校終わって家に帰って小学校に集まって暗くなるまで野球やってた。

土日はスポーツ少年団で野球。

暇な時は素振り。

O君は小2から6年生の試合に出てた。

たぶん憧れもあったし、友達として追いつきたかったんだと思う。

小4の時には地下で優勝するくらいのチーム力はあった。


この頃から親父の単身赴任が始まった。

母親は精神病を患っており、家事もあんまりできずパチンコにハマってしまった。

学校から帰ると親はいない。

グローブとバットを持って学校に行って、野球をする。

暗くなって最後の1人になるまで時間潰して帰る。

お母はまだパチンコ。

勝つと電話がくる。

勝ったからカラオケ行くからどこどこのカラオケ屋来てそこでご飯食べよ。

疲れて断ると怒られて飯も抜き。気分じゃなくてもカラオケに行く。

負けるとコンビニ弁当。

ZORNのコンビニ弁当がおふくろの味。このパンチラインは刺さったね。


この頃から万引きを覚えた。

この頃はポケモンが流行っていた。

みんなゲームボーイをしている。

僕はゲームは興味がなく、野球の方が好きだった。

この頃のゲームボーイは乾電池式だから電池をめっちゃパクってた。

小学校の道路挟んで向かいがホームセンターだった。

学校帰りや野球の帰りに寄ってパクってた。

その電池を後日友達に売る。

そのお金で駄菓子屋で買い物をしてた。

10歳の子供がそんな事長く続けられるはずもなく、あっさり捕まってしまう。

けど何故か親でも、警察でもなく担任が呼ばれた。

担任と学校に行き1時間くらい話した。

自分で親に言えるなら学校から連絡はしない。

どうする?言える?

当然自分で言うと答えた。

ドキドキしながら家に帰ったが、兄貴しかいない。

お母はまだパチンコのようだ。

ほっとしたのかその日は寝てしまった。


1日経つと学校を出た時はしっかり持っていたはずの勇気もなくなり、言えずに日々を過ごしていた。


何カ月経っても連絡がない事を不審に思った担任から、授業参観のタイミングでこの話し聞いてるか確認すると言われた。

もうダメだと思い打ち明ける。

ビビり過ぎてどうなったか覚えてないけど、ホームセンターに親と謝りに行った記憶がある。


小5の時に時間が起きた。

お母が親父の単身赴任についていってしまったのだ。

急にはじまった一個上の兄貴との2人だけの生活。

お金は置いて行ってくれた3万円。

これが1カ月分の食費、生活費だ。

小5と小6の2人。3万円なんてお年玉より多い。大金だ。

小学生男子に計算して使うなんて無理だった。

ゲームを買って、お菓子ジュースを買って豪遊した。

初日で2万とか2万5千円とか使ったと思う。

3日目くらいで無くなった。


この頃から学校も行かなくなった。

学校サボっても怒られない。

夜中ゲームしてても怒られない。

朝起きなくても怒られない。

ご飯は3日に1回じゃがいもを茹でて食ってた。


こんな自堕落な生活を送っていても、野球だけは毎週行った。

日曜日は朝から夕方まで練習、試合があったから弁当が必須だ。

家のすぐそばにコンビニがあり、練習まえにそこでおにぎりとかパクってた。

同情されたくなかった。

親がいない事も誰にも話してなかったと思う。

この頃はまだ、家庭の弁当よりコンビニのおにぎりの方が人気が高かったため、怪しまれることはなかった。

うちのチームは一個上が2人しかいなく、5年の時は優勝出来なかった。


6年生になり相変わらず学校はいかず、野球だけの日々だった。

平日はゲーム三昧。

土日は野球。

この頃は野球してる時だけが楽しかったな。

6年の時はO君を中心に地区では決勝の常連だった。

何回か優勝して、県大会に行ったのはいい思い出。県大会は勝てなかったけど。


この頃から厨二病を患った。

やんきーかっけぇ、不良かっけぇ

どうしたらヤンキーになれるのかなんてわからなかった。

先生に歯向かって暴力振るってタバコを吸って酒を飲む。

これがヤンキーのイメージだった。

まだこの頃はお使いでタバコも酒も買えた時代。

同級生に学校帰りに買ってきてもらい家で飲んでた。

同級生の親とか先生からは嫌われてたと思う。

小学校の図書室で本燃やして暖をとったり、同級生殴ったり、原付で学校行ってみたり。

校長、教頭、学年主任、担任が家に来たりもした。

来ても俺と兄貴しかいないから大した話しも出来ずに帰ってく。

この頃しっかり生きていれば今と違う人生だったのかな。

こんな感じで自由に生きながらも小学校を無事卒業させていただいた。


長くなるのでここで1回止めます。

中学生編以降はまた暇な時書きます。

今日もマイペースにがんばろー