GODZILLA(2014) を見た。
『モンスターズ/地球外生命体』でキツい風刺をかました
ギャレス・エドワーズが、何を訴えるかに興味があり、
珍しく劇場まで足を運んだ。
奇しくも 8月6日、広島が被曝した日であった。
正直、多くのことを盛り込んだため、
内容を理解するには、ちょっと咀嚼に時間が必要な
作品となっている印象である。
もちろん、明確なテーマは 「反核エネルギー」だ。
「反原水爆」に加えて、「反原発」である
オリジナル「ゴジラ」(1954)を継承しつつ
明らかに「フクシマ」を意識したシーンがある。
一般市民の居住区域に隣接する原発が崩壊する。
その原因は、地震…ではなかった点が、
原発の安全性が、地震以外の現象に対しても
保証されていないと訴えているようだ。
ただし、全体的にその比喩的表現は複雑になっている。
咀嚼し、感じた事を、3つに分けて記載する。
=核と自然、環境=
オリジナル「ゴジラ」の役割は
人類の手に余る「核エネルギー」の影響を受けた
自然、環境のしっぺ返しであろう。
その役割は、今回 GODZILLAの敵となる MUTOが担う。
ハリウッド版では、映像の派手さを求められたのか
MUTO と GODZILLA が戦うことになる。
ただ、GODZILLAは人類のために戦ったようには見えない。
GODZILLA は、己の生存のために戦っただけである。
ここで、GODZILLA と MUTO は、
人知が及ばない、「大きな自然現象」として
表現されているのではないだろうか。
そこにいる人間に配慮するわけでなく、
ただ太古からの自然の成り行きのまま振る舞っている。
GODZILLA が人類の守護神には見えなかった。
GODZILLA が圧倒的に強い印象もなかった。
GODZILLA の勝利は、ある意味偶然のものであり
今回は、たまたま人類が助かっただけである。
核による汚染だけでなく、温暖化による異常気象。
人類は今、いつ どちらへ転ぶとも分からない
細い糸の上に立っているのだと指摘しているようだ。
=核兵器へ対する考え方=
MUTO をおびき出す餌として、米軍は核ミサイルを持ち出す。
渡辺謙演ずる日本人科学者は、広島での被爆者の父を持ち、
核ミサイル使用中止を訴える。
結局は、不要となった核ミサイルのタイマー解除ができずに
海上で爆発することとなる。
核ミサイルが爆発し、主人公はギリギリ助けられる。
救助ヘリから、キノコ雲が見える。
しかし、被曝の恐怖が描かれていない。
劇場では、違和感と不満を感じていた。
しかし、そこには確かなメッセージがあった。
まずは、唯一の被爆国日本、そこで生まれた「ゴジラ」に対する
リスペクトを感じる。
そして、安易に核兵器を持ち出す国々があるが
ちょっとした不具合で、制御できなくなる可能性がある
核兵器の恐ろしさが、表現されているのではないだろうか。
被曝に関する恐ろしさは、
ハリウッド版では表現しにくい環境だったのか。
ギャレス・エドワーズの苦肉の策と思われる。
=テロリスト?=
GODZILLA と MUTO には、もう1つ役割がありそうだ。
それは、テロリストと呼ばれる存在。
考え過ぎ?とも言われてしまいそうだが、
『モンスターズ/地球外生命体』を見た後では、
考えずにはいられない。
GODZILLA と MUTO は、神出鬼没で
核兵器が効果がない。
まるでテロリストではないだろうか?
いつ懐に飛び込んでくるか分からない存在であり、
大量殺戮兵器である核兵器では、
テロリストを選別できず、殲滅もできない。
核兵器の存在価値とは??
MUTO が、つがいであることにも違和感を感じていたが
印象的なシーンがある。
① MUTO のオスが、メスに餌である核ミサイルを口移しで
与えるシーン
② MUTO の産卵後、卵を米兵に爆破された時の
MUTO が卵を救おうと必死になる姿
『モンスターズ/地球外生命体』のラストで
2体のモンスターが抱擁するようなシーンを彷彿とさせる。
自分にとって敵と決めつけた存在も
愛情も悲しみも持っていることを訴えているようだ。
「テロリスト」
その言葉さえ、大きな軍隊を持てない少数派を
多数派が勝手に呼んだ名前なのではないだろうか?
ギャレス・エドワーズの "GODZILLA" は、
現時点で名作の1つと言われて良いと考える。
ただ心配なことは
単純明快でないものを理解する努力もせず
「意味不明」、「つまらない」とする人々が多いこと。
→ これらの人々が安易にネット上で評価をする。
→ その評価を鵜呑みにした人々にとっては
作品を理解しにくいものとする。
更には作品そのものを見なくなってしまうこと。
こんな心配もあり、
おせっかいで、独りよがりであろうとも
長文で記載してみた。
最後まで お付き合いしていただけた方には
深謝いたします。