私たちの『眼耳鼻舌身意』
の六根の活動は

縁に触れて自由自在に活動しています。



では、

そんな私たちが

不自由を感じたり
制限を感じたり
不満足に思えたり

というのは

どこから始まるのでしょうか?



例えば、



目にする(見る)と
手に入れたくなり、

耳にする(聞く)と
その情報の内容に執着が起きます。

匂う(嗅ぐ)と
想像が膨らみ、

食べる(味がする)と
もっと欲しくなったりします。

手での感触(触れる)で
所有したい気持ちが高まります。




本来、六根の活動は、

私利私欲な欲望などに

振り回されることのない

融通無碍なる爽やかな働きです。




しかし、

六根の活動に対象が現れた時に
対象に対する執着がおきます。

それか、

『色声香味触法』

と言われる六境です。


六根の活動のままに

放り出しておいたなら

対象はなく、

このものと物との一刻刹那の

同時活動でしかありません。



目に映る物はただ景色、
風景としてあり、

耳に聞こえる鳥の声は、
ただ音なのです。

匂える香りは、ただ香りとしてあり
そこに好きも嫌いもついていません。

味は、味わったままの味としてあるだけですし
それ以上でもそれ以下でもないのです。

触れると触れたままの感触としてあり、
そこに名称の付いた物の存在など
ありません。


つまり、

活動のあるがままにて

このものの存在するとき

そのまんまで満ち足りているはず

なのです。



そこに六境に触れて

''人間的思考が活動''を始めると

とたんに自分と物との二元性で

物事が始まります。




欲張り、執着が起きるのは

六根の活動のままで満ち足りているということを

事実の経験として知らないでいるからです。



誰もが本来、満ち足りており

そうなっています。