修行をして
問題がなくなるのではないのです。


問題があってもそれを問題として取り上げる''自分''が無いのです。(無我)


自分が無いので対象(問題)となるものもありません。


問題の起きようが無いのです。


ですから、とことん救われているのです。



例えば、私の線維筋痛症の経験から見てみましょう。


「痛み」が''問題''となっている場合ですが、

痛みを味わい切って
自分が痛みそのものに一つになってしまった時、

痛みは存在しますが、
その痛みには『線維筋痛症』という名詞も『痛い』という形容詞も
それを得た『自分』もない
という気づきがありました。


そして、


ただ、痛いという痛みの「味わい」が
そこにそのものとして在るだけです。


すると痛いのは、確かに痛いのではありますが、
痛みが私の''問題''として存在することは無いのです。



私の経験した、
線維筋痛症の全身の激痛は、

血管にガラスが流れているような激痛

腕を引きちぎられるような爆痛

杭を打ち込まれるような気の遠くなるような痛み

で、本当に恐ろし程の痛みでした。


しかし、究極は、

それでさえ、

ただ、

そのことがそのこととしてあるだけで

問題ではないのです。



問題ではないので

痛みは痛みにて

同時に救われているのでした。