父はもう水もメロン果汁もほとんど口にすることが出来ず、ひたすら痰を出そうと咳ばかりしていました。
ただ喉から口へ痰を出すことが出来なくなってきていて、苦しそうでした。
主治医へ少し深い鎮静にして苦しみを軽減出来ないかと相談し、父の意思も確認した上で翌朝に父の希望でもあることを再度伝えました。
わたしは、いつも通りに夜間付き添いをしており、12/23も夕刻から翌朝9時30分まで付き添い、一旦帰宅して家事を済ませてから、また夕刻に病院へ来ました。
父は眠っていたのですが、やはり10分おきに痰が絡んで咳が出て結果的には眠れない状態にありました。
継続的な鎮静を始め、一旦うとうと眠ったものの、やはりまた痰が絡んで咳込みます。
21時過ぎに看護師さんが吸引を始めましたが、もう動けない父が苦しそうな顔で身体をよじり、唇を固く引きむすんで拒絶しているのにチューブを喉元まで挿入し、痰を吸引していきます。
こんな状態になってまで、何故こんなにも苦しまなければならないのかと涙が止まりませんでした。
鼻からチューブを入れちゃダメですか?その方がきちんと吸引できますよ。
と看護師さんが言うのを
父がどうしてもイヤだと言っていたので、絶対にそれだけはやめてください!
と制して、父を抱きしめました。
看護師さんが退室したあと、父に
お父さんごめん。
あんなにも吸引は嫌だって言ってたのに、最期にこんな目に合わせてしまってホントにごめん。
苦しんだり痛みがないようにするって約束したのに、お父さん本当にごめんなさい。
もういいよ。深く眠ってそのまま旅立って。
こんな苦しみをお父さんが受けなければならないなんてあまりにも悲しすぎる。
わたし、こんなにも至らない娘だけどお父さんのことずっと大好きだよ。
わたしをずっと愛して育ててくれてありがとう。
もう一度生まれ変わってもお父さんの娘にしてよ。
と訴えていました。
その後少しうとうとしていたところ、件の看護師さんが入室された、、と思ったら慌ただしくバタバタ動き始めました。
父の元に駆け寄ると、父がかすかに呼吸しているだけになっていました。
慌ててつけた心電図モニターには弱々しい心拍が映し出され、当直の医師から
今、心臓マッサージすれば少しの間動いていると思いますが、どうされますか?
と尋ねられ
いえ。
もう充分すぎるほど父は頑張ってくれました。
このまま旅立たせてやってください。
と答えました。
間もなく、心電図モニターの心拍が平らな一本線になり、当直医の確認を以って3時57分、父は永眠しました。
父に泣きながら今までありがとうと、また必ず娘として生まれ変わらせてね、と言い続けました。
その後エンゼルケアを施され、お気に入りのお洋服に着替えた父はとても穏やかな表情で、まるで眠っているかのようでした。
父の旅立ちの着衣一式は、いつ父に急変があるかわからないと聞いた時から準備して車に置いていたのを病室の浴室内に運び込んだのが亡くなる前日。
死後硬直が始まる前の父に、このお気に入りのお洋服を着せてから葬儀をしたい一心でした。
きちんと段取りをしていないと嫌がっていた父だったので、ある意味縁起でもない準備だけど許してくれるかな。
前夜から当直のスタッフさんは、父と馴染みのある方が誰ひとりおられず、入院中の誰もがまだ眠る早朝、また早番のスタッフさんの出勤前にひっそり病院から葬儀場へ向かった父は、仲良しさんの看護師さん、介護士さんに涙で見送られるのを避けたのではないかと思いました。
どんな時でも、ユーモアに富んだ冗談を言っていた明るい父でしたから。
これは、病院でお洗濯中だった父の毛布を病棟にとりに行き、看護師さんたちに挨拶した時にも同じことを言われました。
前々日にお世話になった介護士さんが駐車場まで探しに出てきてくださって、12/24朝に出勤して父がいないことに驚いてと号泣されました。
葬儀はかねてより相談していた メモリアルホール日南 で父との約束通りに誰にも知らせずに執り行い、翌朝いちばんの火葬で荼毘に付し、小さな箱にお骨となって父は帰ってきました。
わたしたち夫婦が過ごしている離れの部屋で亡き母の位牌をおさめた仏壇の隣で鎮座しています。
四十九日法要は神戸で身内だけで散骨し、メリケンパーク内のホテルでお別れ会をする予定です。
最期まで鮮やかで見事だった父の生き様を、娘のわたしは目の当たりにしました。
それでも、まだ父がどこかにいるようなそんな気がして、そのたびに父の在りし日を思い出し父がいない今を泣いてばかり。51歳にもなってダメな娘です。
父の旅立ちの記録はここまで。
あとは粛々と父の法要準備をしながら新しい年を迎えたいと思います。
