今日から3連休。

ひさびさに、福島県の会津にいきたいなぁ~と思って、会津領主だった蘆名氏の写真整理してたo(^▽^)o

蘆名(あしな)氏は、鎌倉時代に三浦氏(今の神奈川に勢力を持っていた豪族)の9男、佐原義連が源頼朝から褒美として会津(今の福島県会津地方)の領地をもらったのが始まり。
鎌倉時代から戦国時代の1589年伊達政宗に滅ぼされるまで会津を400年間治めてた戦国大名。

戦国時代、蘆名氏は伊達氏と並ぶ東北の2大勢力でした≧(´▽`)≦

ブログネタがないので、これまで行った蘆名氏の写真紹介でもしようかな。

■黒川城(福島県会津若松市)
会津の名門、蘆名氏の居城だった黒川城(会津若松城)

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■16代 蘆名盛氏(もりうじ)公の墓
会津地方を統一し蘆名氏を、伊達氏と並ぶ勢力にした武将。

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■17代 蘆名盛興(もりおき)公の墓
盛氏の子で、酒の害により若くして病死。

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■18代 蘆名盛隆(もりたか)公の墓
もとは二階堂氏からの人質だったけど、若くして盛興が亡くなったため蘆名氏の養子となり急遽家督を継ぐ。
織田信長に馬を献じて中央と誼を通じるなどの外交手段をとり、蘆名氏の勢力を維持する。
しかし、黒川城内で家臣に刺され若くして死去。

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■20代 蘆名義広(よしひろ)公の墓
蘆名氏が断絶したため佐竹義重の二男、義広が盛隆の娘の婿養子となり蘆名氏を相続する。
義広が家督をつぐと暴君だったためか家臣団が伊達派と佐竹派に二分する。
そんな中まだ15歳の義広は、1589年摺上原の戦いで伊達政宗と戦い大敗。
義広は会津を去り、実家の佐竹氏を頼り常陸(今の茨城県)に逃げ帰る。会津蘆名氏は滅ぶ。
墓は秋田県仙北市の角館にあります。

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■向羽黒山城(黒川城の出城)
16代の盛氏が隠居するための城として築きました。
会津美里町にあります。

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■小田山城(黒川城の出城)
黒川城の背後にある山城で、蘆名氏歴代の当主が支城として利用してます。

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■蘆名氏遺臣の屋敷跡(秋田県能代市檜山)
20代蘆名義広が伊達氏に敗れたものの、豊臣秀吉から江戸崎(今の茨城県江戸崎町)4万5千石を安堵され大名としてなんとか残る。しかし1600年関ヶ原の戦いで蘆名義広は兄の佐竹義宣と行動をともにし石田三成の西軍に与したため徳川家康から常陸の領土を没収され、佐竹氏とともに秋田20万石へ国替え。
義広は蘆名義勝と名前を変え、兄の佐竹義宣から角館1万5千石を賜る。1653年蘆名義勝から3代の千鶴丸が庭で転落死。蘆名家は断絶。その後、佐竹本家の命により蘆名氏の家臣団は角館に残る者と檜山・多賀谷氏の参加に配属される者などに分断されました。蘆名氏のお家再興運動を佐竹氏が阻止するためだったと言われています。
秋田県の能代市にある多賀谷氏の領地、檜山で発見した蘆名氏の遺臣が暮らした屋敷跡になります。

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長文になりましたが、会津70万石を治めた名門、蘆名氏の史跡紹介でした。('-^*)/