後先を考えずに仕事を辞めた。
電話のベルが鳴るたび、パブロフの犬よろしく受話器を取る生活から解放された。
口の悪いお客様から怒られる生活から解放された。
最初の一ヶ月は、自由である悦びを噛み締めた。
毎朝5時に起きる必要も、毎夜2時まで起きて家の事をする必要もなくなった。
寝たい時間に寝て、食べたい時間に食べる。
まるで動物のような暮らしだった。
「蓄えがあるうちは、自由にやろう」
心の片隅にある焦燥感に目を背け、自由を謳歌した。
二ヶ月。
誕生日を迎え、歳を一つ重ねたことで、片隅の焦燥感は存在感を増していった。
蓄えはある。
だからといって、この歳でこのような動物のような暮らしをしていて良いのだろうか。
何かしなくては。
何かしなくては。
すっかり乱れてしまった起床時間。
起きたらもう夜の7時。
普通の会社員であれば、帰路についていたり、同僚と呑みに行っている事だろう。
"普通の会社員"の生活を目の当たりにするのが怖くて、外に出る事が怖くなった。
何かしなくては。
何かしなくては。
焦燥感ばかりは日に日に大きくなるのに、何故か行動が起こせない。
何かって、一体何なんだろう。
疑問を抱きながら、それでも焦燥感を消し去るために、検索エンジンで"転職"と検索しはじめたのは、退職から二ヵ月半が経ってからだった。
三ヶ月。
検索エンジンで一番上に表示された転職支援サイトに登録するも、何もする気が起きなかった。
登録しただけで、何かをした気になってしまっていた。
毎日のように届く求人情報に、心は焦燥感で塗りつぶされていった。
何かしなくては。
そう思うのに、何かが浮かんでこなかった。
何かが浮かばないから、何も見る気がしない。
それでもその何かから追い立てられるような気持ちになった。
そんな中、電話が鳴った。
相手は転職支援サイトのエージェントだった。
転職活動のサポートをする為に、面接をさせてくれという趣旨だった。
件の退職のきっかけから、私は会社員に対して不信感を募らせていた。
「信じて余計な事を言うまい」
そう思う半面、少しだけ焦燥感が薄れていくのを感じていた。
エージェントとの面接の為、新宿に向かった。
立ち並ぶビル群。
当たり前のような顔をして闊歩するビジネスマン。
仕事をしていないというだけで、そんな何気ない風景の一つ一つに劣等感で押しつぶされそうになった。
逃げ込むようにして面接場所に向かう。
出てきたのは、20代後半だろう男性だった。
