児童虐待防止法が出来た。

 

直接的な暴力は無かったものの私自身の育った環境はソコソコ劣悪であった。

 

何故、そう言えるかというと御近所、知人等々との家庭の比較をしてみると自分のような家はなかった。

 

それでも何とか頑張れたのには、やはり母親の存在が有る。

 

純真にして無垢な子供が魂を委縮させながら日々恐れ一生懸命に耐えている様子が想像に堪えない。

 

本来愛するべき、保護するべき庇護するべき存在を殺めてしまう意識感覚には怒りを覚える。

 

随分前に児童相談所の方の話を聞いたことが有る。

 

関係性の構図にデーターとして一番多い構図は多分地域にもよると思いますが、

子ずれの母親に年下の男性という関係性に虐待が比較的に多いという話をされていたのを思い出した。

 

いずれにしろ近年毎年のようにメディアで耳にし胸を痛める。

 

人生の学びとして個と他人の区別は必要ではあるが

本来の人間の本質的なもの、哲学的には愛念というものも誰でも宿している。

 

自分も偉そうなことは言えないが少なくとも身近に、または近所にその様な家庭が有ると知れば何かどうにか出来ないものかと意識思考する。

 

痛ましい事件を他人事としないで直接何かできなくとも、皆が社会が他人事でも少しは自分感覚でより良くなるイメージを持てば地域の空気感は変わってくるもの。

 

つまり他人事も我が事として捉える意識は自身の成長、人間力にもつながる非常に大事な意識です。

直接的に関係なくても同胞はらからとよく言いますが、

皆、類魂意識、あなたは私、私はあなた、と言う意識も必要と思うのです。