何はなくとも、ナニワは最高。節分が過ぎたようだ。暦ではもう春であるが、どうやら暦はだまされているらしい。オオカミのような冬は「春」だと偽って、気を許した僕ら子豚達を凍えさせて食べてしまおうとしているのだ。コートを仕舞うにはまだ早い。当分はオオカミに騙されないように、よく一日の外の気温を確かめてから、街に繰り出すべきであろう。ズボンの下には必ずパッチが必要なのである。
節分に話を戻そう。豆まきは毎年私の仕事である。いや、正確には私の仕事で“あった”。ただ単に、豆は買うものの撒くのをみんな面倒臭がって、結局私がいつもやる羽目になり、もはや家族内では「暗黙の了解」となってしまっていたのである。しかも一緒に騒いでくれるのならまだしも、みんながテレビ観ながら笑っている時に、一人で黙々と暗い部屋に向かって「鬼は外ぉ、福は内ぃ…パラパラ…」とやっていくのは、なかなか「この世の終わり」を象徴するかのようである。豆を撒くことで、確実に厄を呼び込んでいる。 では、なぜそこまでして豆を撒くのかというと、この豆の味が好きだからである。このサクッとした食感と広がる香ばしさ、歯の間に詰まる皮、簡単に手に入りそうなのに、一年に一回しか食えない貴重感などが、この豆を一層良く見せる。「じゃあ、食べるだけでいいじゃん」という木村拓哉さんのご指摘もごもっともではあるが、かといって撒かずに食べるのは、豆の人(?)に申し訳ない気がする、だからそこはちゃんと撒く。そのように、私と豆は相互的な良好関係を長年築いてきたのである。もはや、一心同体。私たちを隔てるものは何一つとしてなかった。
しかし、いつの時代も信頼関係というものは、どれだけ長い間培っても、一度揺らぐと一瞬にして崩壊してしまうものである。そう、今年の豆撒きは僕がたまたま出かけていたため、代理人である弟の手によって遂行された。かつ、あろうことか母が間違えて一円玉ぐらいの大きさの「豆菓子」なる、豆を砂糖で包んだ菓子を買ってきてしまったので、あまり撒くに撒けず、結局ほとんど撒かれないまま今年の節分は終わりを告げた。
そうとは知らず、帰ってきた僕はとりあえず部屋に入ると、勢い良く豆菓子を踏んづけてしまった。幸い靴下により痛みは免れたものの、散らばった豆菓子の破片を片付けつつ、僕は思った….。
「あっ、今日豆撒きやったんや。でも誰かやったみたいやし、ラッキー。」
そう、そこまで豆撒きに未練はなかったのである。ただ誰もやりたがらなかっただけの話だ。しかし、豆は少し食べたかったなぁ…。来年は食べよっと!
節分に話を戻そう。豆まきは毎年私の仕事である。いや、正確には私の仕事で“あった”。ただ単に、豆は買うものの撒くのをみんな面倒臭がって、結局私がいつもやる羽目になり、もはや家族内では「暗黙の了解」となってしまっていたのである。しかも一緒に騒いでくれるのならまだしも、みんながテレビ観ながら笑っている時に、一人で黙々と暗い部屋に向かって「鬼は外ぉ、福は内ぃ…パラパラ…」とやっていくのは、なかなか「この世の終わり」を象徴するかのようである。豆を撒くことで、確実に厄を呼び込んでいる。 では、なぜそこまでして豆を撒くのかというと、この豆の味が好きだからである。このサクッとした食感と広がる香ばしさ、歯の間に詰まる皮、簡単に手に入りそうなのに、一年に一回しか食えない貴重感などが、この豆を一層良く見せる。「じゃあ、食べるだけでいいじゃん」という木村拓哉さんのご指摘もごもっともではあるが、かといって撒かずに食べるのは、豆の人(?)に申し訳ない気がする、だからそこはちゃんと撒く。そのように、私と豆は相互的な良好関係を長年築いてきたのである。もはや、一心同体。私たちを隔てるものは何一つとしてなかった。
しかし、いつの時代も信頼関係というものは、どれだけ長い間培っても、一度揺らぐと一瞬にして崩壊してしまうものである。そう、今年の豆撒きは僕がたまたま出かけていたため、代理人である弟の手によって遂行された。かつ、あろうことか母が間違えて一円玉ぐらいの大きさの「豆菓子」なる、豆を砂糖で包んだ菓子を買ってきてしまったので、あまり撒くに撒けず、結局ほとんど撒かれないまま今年の節分は終わりを告げた。
そうとは知らず、帰ってきた僕はとりあえず部屋に入ると、勢い良く豆菓子を踏んづけてしまった。幸い靴下により痛みは免れたものの、散らばった豆菓子の破片を片付けつつ、僕は思った….。
「あっ、今日豆撒きやったんや。でも誰かやったみたいやし、ラッキー。」
そう、そこまで豆撒きに未練はなかったのである。ただ誰もやりたがらなかっただけの話だ。しかし、豆は少し食べたかったなぁ…。来年は食べよっと!