【エレン・ジョンソン・サーリーフ】リベリア大統領 | マラリンの「アフリカ」と「リベリア共和国」情報ブログ。

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「リベリア(ライベリア)共和国」・アフリカに関する、徒然備忘録ブログです/^^




【TICADⅤ】第5回アフリカ開発会議
パシフィコ横浜・リベリア共和国ブースにて
開催日2013年6月1日~6月3日
(出典:YouTube contentsassist)
https://www.youtube.com/watch?v=uQjSlRRjZdQ&feature=youtube_gdata_player


 【エレン・ジョンソン・サーリーフ】 













エレン・ジョンソン・サーリーフ 
Ellen Johnson Sirleaf 




生年月日: 1938年10月29日(75歳)

出生地: リベリア、モンロビア 

出身校:コロラド大学ボルダー校 
ウィスコンシン大学マディソン校 
ケネディスクール 



現職:「経済学者 実業家 積極行動主義者」


所属政党 :「統一党」



『第24代 リベリア共和国大統領 』
任期:2006年1月16日より 




    『ノーベル賞受賞者 』

受賞年:2011年

受賞部門:ノーベル平和賞

受賞理由: 平和構築活動に女性が安全かつ全面的に 参加できるよう求めて非暴力の活動を行った。






エレン・ジョンソン・サーリーフ
(Ellen Johnson Sirleaf, 1938年10月29日)は
西アフリカのリベリア共和国の現大統領である。


選挙で選出されたアフリカ初の女性大統領であり、アフリカの女性国 家元首としては、ギニアビサウのカルメン・ペレイラ大統領代理に続いて二人目である。


「鉄の女」とも呼ばれている。


統一党所属。また、同リベリアの女性国家元首としては、同じ統一党に所属していた暫定政権のルース・ペリー国家評議会議長がいる。


アメリカ合衆国のジョージア州アトランタにチャールズ・サーリーフら、4人の息子や6人の 孫達がいる。






      『生い立ち』


1938年にリベリアの首都モンロビアにおいて、ゴ ラ族 (Gola) とアメリコ・ライベリアンとの間に生まれた。
彼女の祖父の一人はドイツ人である。



1948年から1955年にモンロビアのカレッジオブウェストアフリカ 
(College of West Africa) で経済学を学んだ後、17歳でジェームズ・サーリーフと結婚。


その後、1961年にアメリカに渡り、ウィスコンシン州マディソンのウィスコンシン大学マディソン校で学ぶ。


コロラド州のコロラド大学ボ ルダー校で経済学の学士号を得た。
そして1969年から1971年までハーバード大学ケネディスク-ルで経済学と公共政策を学び、修士号を得た。





  『投獄・亡命を経て大統領へ』


アメリカでの学業を終え、リベリアに帰国後はホイッグ党のウィリアム・R・トルバート大統領の元で財務相になる。

しかし、1980年にサミュエル・ ドゥ軍曹率いる反アメリコ・ライベリアンの部族 出身の軍人らが軍事クーデターを起こし、
トルバート大統領を暗殺、アメリコ・ライベリアンのホイッグ党は崩壊した。


ドゥは、1984年に自らリベリア共和国大統領を宣言した。
また、ドゥはトルバートに仕えていた何人かの高官を処刑しているが、彼女はケニアに逃亡する事に成功した。




1983年から1985年の間、彼女はケニアのナイロビでシティバンクに勤務している。
その後1985年に一時帰国した際、彼女はドゥ政権に対する批判をした為に自宅監禁の下に置かれ、
刑務所での10年の刑を宣告された。



しばらくして解放された後、彼女は再びシティバンクのケニアのナイロビ支社で勤務し、(HSBCの関連企業)赤道銀行(米国ワシントン)でも活躍した。



リベリアでは1989年に、ドゥ政権に反旗を揚げ たチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国 戦線(NPFL)が内戦を起こすと、はじめ彼女はテーラーを支持していたが、その後はNPFLと一線を画した。


1990年9月9日、NPFLから分派したプリンス・ジョンソン率いる分派勢力がドウを捕らえ処刑した。


その後、リベリアはテーラー、ジョンソン、ドウの残党等の多くの武装勢力が争う内戦 に突入し1996年まで継続した。
紛争ダイヤモンド疑惑で悪名高いテーラーではあるが、内戦後の1997年に各国監視の下で行われた選挙では75%もの得票数を得て新大統領に選出された。



内戦時代の1992年から1997年には、彼女は国際連合開発計画に職を得てアフリカ局長を務め た。


1997年に彼女はリベリアに帰国して前述の大統領選挙に立候補し落選したものの、当選した テーラーに次ぐ10%の得票を得た。


新政権が生まれたにもかかわらずテーラー大統領では国はまと まらず、
再度の内戦が発生した。そして、2003年の内戦終結後にテーラーは国外亡命した。


和平後の2003年の選挙では、彼女は有力な候補者として議論に上ったものの、結局多くのグループは中立的立場のジュデ・ブライアントを暫定的大統領として選んだ。


彼女は国家再建任務のトップに就任している。その後の2005年の選挙においては、対抗馬である元サッカー選手のジョージ・ ウェアに挑戦して、積極的な選挙活動を行った。 


選挙結果については一連の混乱はあったもの の、2005年11月23日に勝者宣言してリベリアの大 統領に選出された。 



2006年1月16日の大統領就任式にはコンドリーザ・ライスアメリカ合衆国国務長官やジョージ・W・ブッシュ大統領のローラ・ブッシュ夫人などが出席した。



大統領就任後は、国民融和のために野党の政治家を複数閣僚に任命しただけでなく、アントアネット・サイエ財務大臣(後にIMFアフリカ局長)のような有能な女性閣僚も何人も起用した。


汚職を絶対許さないとの公約を実行するために制度を整備する等の努力をしたものの、
彼女の兄弟も汚職疑惑で閣僚辞任する等あり、汚職を完全撲滅することは難しい現実であった。


49億米ドルにまで至った国家の海外債務を削減することに努力した結果、その後重債務貧困国としての債務の削減が国際社会に認められた。


また、内戦にかかる真実和解委員会を設置したところ、かつてのテーラーとの関係によって彼女自身も厳しく報告書で名指しされることとなった。


アメリカや中国との外交関係や地域周辺国との関係においてもその関係強化に努力した。





    『ノーベル平和賞受賞』

2011年10月7日、同年のノーベル平和賞受賞者に 選出された。