・経済関連(GATT、コーデル・ハル、競争入札(一般)、株式・金融の展開)

 [GATT、コーデル・ハル、アメリカ]


 GATT(関税貿易一般協定)というのは、米国の理念的なものが、英国の抵抗等により、穴が空いたり、折れたり、捻切れたりして、結果的に別のものになって、あることになったようなものであると思う。

 

 米国は米国の経済のあり方や、言わば自由貿易というものを敷こうとしたが、他の事情により、それが折れ曲がるなどして、そうでないものがあることになったと思う。


 コーデル・ハルという、それまでは国内のことを考え、欧州戦争の起き、その中、それ以降においては、国際的なことを考え、熱烈な自由貿易、低関税の支持推進者であった人物が、F・ルーズベルトの大統領就任に伴い国務長官になり、国務省をハル’s国務省に、人事その他によりしながら、関税引き下げや、英国関税特恵の廃止といったものに熱心熱烈に取り組み、向かっていった。


 1943年4月の米国の手段方法委員会において、ハルは1934年からの相互貿易協定について、以下のように述べた。

 

Nations have various ways of managing the production and exchange of goods and services. In this country we prefer that our combined domestic and international economy rest primarily on a system of free enterprises. The trade agreements program is designed to promote this end.

 

各国は生産そして物品(goods)および労働(services)の交換を行う色々な方法を持っています。この国では、私たちは、自由な企業活動(free enterprises)のやり方(system)を基本とする、私たちの組合わさっている国内および国際経済を好みます。この〔1934年の〕貿易協定計画は、この目的を推進するために構築されています。


 また「GATTの誕生」という本には次のようにある。

 

Keynes strongly believed that government economic planning would be required to ensure full employment in the postwar period. Such planning, in his view, would necessarily include government controls on international trade. The State Department and other U.S. agencies took a very different view. Not only did they want nondiscrimination as a key part of the world trading system, but they also wanted to ensure that most international trade would be left in the hands of private enterprise, not government planners.

 

ケインズは、戦後期において、完全雇用を確かにするために政府の経済計画(planning)が必要になるだろうことを強く信じていた。そのような計画は、彼の見るところでは、国際貿易についての政府の管理(control)を必要的に含み得る。国務省と他の合衆国の機関(agencies)は大きく異なる見解を取っていた。世界の貿易体制の要点となる部分(key part)として無差別(nondiscrimination)を欲していただけでなく、彼らはまた、国際貿易の殆どが、政府の計画者の手ではなく、私的な活動(enterprises)の手に残され得ることが保証されることを欲した。

 
 1944年には米国の大西洋沿岸・ニューハンプシャー州のブレトンウッズにおける会議があり、そして翌年1945年11月には国務省は「雇用と世界貿易の拡大についての提案(proposals for expansion of world trade and employment)」という文書を出し、そこには次のようにある。

 

[...] Trade connects employment, production, and consumption and facilitates all three. Its increase means more jobs, more wealth produced, more goods to be enjoyed.

 

貿易は、雇用、生産、そして消費に関係し、そして三つ全てを促進する。その増大は、更なる仕事、更なる産み出される富、更なる享受される産物(goods)を意味する。

 

 英国は当初から米国の姿勢、要求に抵抗的、反対的だった。


 設立が考えられ、そして設立を見ずに終わった国際貿易機関(ITO)の1948年4月の憲章においては、このような(1945年11月の文書)内容の文言はおそらくない。


 GATTというのは、その国際貿易機関(ITO)のための話し合いと並行的になされていた各国の関税引き下げに関する話に、設立を見ずに終わったその機関の憲章の草案から貿易等に関する部分を引き抜いて、それを合わせてあるものであるらしい。

 それは1947年のもので、翌年の国際貿易機関の憲章が、署名した23ヶ国のうち二か国に批准されるのみにもなり、その設立はもはや無理となり、GATTの方で色々やっていく、ということになったらしい。

 

 このGATTというのは言わば談合的な機関のようなものだったとおそらく思う。
 
[門戸開放、競争入札(一般)]

 米国はOpen Door policy(門戸開放政策)という文言、考えを掲げ、もって大陸において欧州諸国、そして日本に当たり続けた。これは、①equal opportunity、②equal opportunityおよびterritorial integrity、③何らかの杭を打つような動きのようなものについてそれに向かって発せられたりする、④独占的(monopoly)なものはこれに抵触すると考えられたりする、⑤sphere of influence/interest(勢力圏)というような考えに抗するようにしてまた抗するようなものとして言われたりあったりする、というような言葉だった。

 米国は大清国をChina、Chinese Empireと認識し、そしてChina、sovereignty、territorial integrity、そしてOpen Door policy/equal opportunityといった考え、ものの見方、認識で見、動き、ということをし、満州に入った日本の間に不和、摩擦、軋轢のあり、コーデル・ハル国務長官の硬直さもあり、日米戦争というものがあった。

 戦後、GHQ・米国は、公共工事について、競争入札(指名)を厭い、競争入札(一般)を支持し、それを採用させた。これはやたらな安値入札やそれに伴う他の色々の問題等を引き起こした。その後は競争入札(指名)が基本になったが、1989年の日米建設協議のあり、競争入札(一般)の採用を基本とする動きが起こり、その後、殆どの公共工事で競争入札(一般)を採用することになっていった。

 

自分は上述の経緯を知らないし、細かいことも知らないが、以下の本には次のような記述がある。

 

[日米建設摩擦]1990年

 アメリカ側では一般競争入札方式がフェアーである、と主張しているが、日本では役所に限らず民間でも、指名競争入札が一般的になっている。ところが、一般競走入札がフェアーである、と主張するアメリカの国内においても、指名競争入札がかなり有力である。

 一般競争入札は、「誰でも応札できる」と一言のもとに決めつけると、そこには大きな落とし穴がある。
 〔…〕ボンド会社に信用力(与信力)のない業者は、一般競争入札〔…〕に応札してはならないし応札できないのである。〔…〕

 


[経済関係一般]

1993年に、戦後十年後から四十年近く続いていた与党自民党、野党第一党社会党という形が崩れることになった。

 

細川護煕(日本新党、前年-)を首相とする、日本新党、新党さきがけ、社会党、新生党、公明党、民社党などからなる連立政権が誕生した。

細川首相は私設諮問機関を設置し、これが同年11月に報告書を出した。これから以降、社会党・さきがけ・自民党からなる政権、自民党の政権など、政権は変遷していったものの、言わば合理思考による経済財政行政の改革、規制緩和、といったものに取り組まれ、それが推進されていった。



前年5月の新党結成の会見において細川護煕は、「古ぼけた家を改築するのではなく、ブルドーザーで全部片付けて、新しい家を建てようと思う」と述べたらしい。

細川首相は内閣成立の同月に、諮問(しもん)機関・経済改革研究会(座長・経団連会長平岩外四)を用意し、11月には同研究会が上述の中間報告書を出した。
 

 公的規制は、これまで産業の発展と国民生活の安定にそれなりの寄与をしてきた。しかし、いまでは、かえって経済社会の硬直性を強め、今後の経済社会構造の変革を妨げている面が強まっている。
 〔…〕

 規制緩和によって、企業には新しいビジネスチャンスが与えられ、雇用も拡大し、消費者には多様な商品・サービスの選択の幅を広げる。内外価格差の縮小にも役立つ。同時に、それは内外を通じた自由競争を促進し、我が国経済社会の透明性を高め、国際的に調和のとれたものとするであろう。
 これまでも規制緩和が言われてきたが、民間の行政への依存体質が残るなか、既得権益にとらわれたり、確たる緩和の必要性が十分に理解されないために、十分実行に移されてこなかった・抜本的な見直しは、短期的には経済社会の一部に苦痛を与えるが、中長期的には自己責任原則と市場原理に立つ自由な経済社会の建設のために不可避なものである。強力に実行すべきである。

 公的規制の抜本的見直しに当たっては、各分野を均しく検討し、"聖域"があってはならず、福祉、教育、労働、金融といった分野でも上述の考えをもって当たるべきである。


村山内閣の平成7年(1995年)3月に、上の中間報告でも言及されていた、規制緩和推進五ヵ年計画が閣議決定され発表された。

橋本内閣(1996年-1998年)は行政改革、財政・経済改革に向かった。「安易に財政に依存するのではなく、規制緩和を始めとする経済構造改革を推進し、わが国経済の体質強化を図っていくことが基本だ」(橋本首相、平成9年1月)

<日本再建のための橋本行革を推進する500人委員会>(加藤寛ら、平成9年12月)



(株式関係)

1997年にはストックオプション(株式定価特買権)が導入され、以後の法改正でそれが促進された。|これは経営者・役員、従業員がその会社の株式を一定価格で購入できるという制度で、どこから出てくるものなのかわからないが、とにかくそのような制度で、これにより経営者・役員は株価の方に意識を向けるようになり、また、株式保有者と言わばグルになるようになる。

2001年には自社株買い(株式会社が自ら発行し購入された株式を買い入れること)が目的無制限に可能になった。|これは株式会社の、発行株式数を圧縮することになり、一株当たりの配当金を大きくしたり、また資本金(基金)を圧縮することになり、株価を上げたりする、ということになることになる。これは株式保有者の望むものに資するものになる。

ある2010年の研究によれば、「金融機関と密接な関係をもつ旧来型の日本型ガバナンスがなされている企業では賃金が相対的に高く、外国人株主の影響が強い企業ほど、賃金が低くなっていることを明らかにしています。そして、最も大きな賃金抑制圧力は、外国人投資家の影響であるとしています。」ということらしい。
 

以上には米国の圧力と、米国の影響といったものもある。