アップするときには日付が変わっていると思うが、令和3年3月3日、ひな祭り。

 

トイレのマークの色や、女性がスカートをはいている姿に対しても、ジェンダー問題関連の様々なご意見があり、公共の場でladies and gentlemenという表現が消え始めつつあるだけでなく、小学校でも、男女とも「さん」付けで名簿の男女分けもないこの現代において、ひな祭りなんていつまで続けられるのかしら、という気もするが、古くは平安時代から続いているという説もあるようなので、その歴史的背景からも、ひな人形業者もデパートの商業的な問題からも、よほど変な炎上でもしない限り、少しずつ姿を変えながら続いていくのだろう。

 

ジェンダーニュートラルとは、マイノリティに対する配慮ではなく、区別は差別の始まりだから差別ない世界を、というのが建前である。しかし実際に生活していてジェンダーニュートラルを必要としている人がどれだけいるのかを考えたときに、少なくともそういう人が多いわけではない。配慮自体はとても大切なことであるが、文化や慣用句、あるいは言語問題(フランス語の男性名詞、女性名詞等)、宗教など多くの問題を抱えるジェンダーニュートラル、課題山積の中、どこまでするべきかというのは、非常に難しい。・・・今の時代ならこんなの世に出せないのでは。

 

撮影:柴又駅

 

しかし、考えてみると、医療はジェンダー問題とは対極である。生き方がどれほどジェンダーニュートラルであっても、男女で病気になる確率が違ったり、体つきから骨盤臓器の構造まで全く違う。いわゆる、男性がなりやすい病気、女性がなりやすい病気もある。出産も授乳も生物学的女性しか不可能である。その流れでいえば、不妊治療はジェンダーニュートラルとは対極のものだな、と時々思う。


妻が女性らしく、夫が男性らしくあること自体は求められていないが、自らの生物学的性別と否応なしに向き合わざるを得ず、また、それによる性別による役割分担はどうしても生じてしまう。ジェンダー問題が叫ばれていなかった時代は、当たり前のものとして受け入れられたものでも、世の中が変化する反面、自分たちが受けている医療はそれに対応できない、仕方がないことではあるが、そういったギャップも知らず知らずにストレスに感じている方もおられることだろう。

 

古き良き時代、とは言え、昔は昔で色々あったはずで、どんな時代にも違った苦労はあるものだと思うが、この情報化社会において、様々なことに気を使いながら生きていくのは決して楽ではない。寅さんも今ごろ天国で、「人間はつらいよ」とか言ってるかもしれない。

 

そんな寅さんの名言の中で私が好きな言葉。

 

生きていれば色々なことがある。そんな時に思い出すようにしている。

もう3月、春はすぐそこ。