「自分がしてほしくないことはするな」「自分がしてほしいことを人にもしなさい」。
一見すると、とても分かりやすく、正しそうな言葉です。子どものころ、よく言われたやつです。

 

でも、この言葉は意外と諸刃の剣。「人間の感じ方って大体同じだよね」という、かなり雑な大前提が含まれているところが、筆者はどうしても好きになれません。採血にも大きなストレスを感じる方もいれば、逆に「注射は嫌いじゃないです」「なんなら好きです」という方までいます。採卵も、静脈麻酔じゃなきゃ無理という方もおられれば、「無麻酔で全然オッケー」という方も3割くらいいます。こうした現場にいると、「普通」「みんな」なんて架空のもので、実態はほとんど存在しないのだと実感します。人はそれぞれです。注:痛みに対する感受性は人それぞれであるということであって、痛みに寄り添うつもりがないわけでもありません。当院ではご希望があれば静脈麻酔の採卵も可能です。念のため。

 

 

さて、今日は共感について少し考えてみます。

 

共感されることで救われる人がいます。これは厳然たる事実。「つらかったですね」「わかります」と言われることで、気持ちが軽くなる人。いわゆるカウンセリングも、こうした要素が大きい(もちろん、すべてではありませんが)。

 

一方で、同じ言葉を向けられて、内心うんざりする人もいます。よく分かっていない相手からの共感ほど、空虚に感じるものはありません。善意の共感が、必ずしも優しさとして受け取られるとは限らない。状況によっては、表面だけ寄り添われることに強い違和感や怒りを覚え、「お前に何が分かる」と感じてしまうことすらあります。いわゆる「分かる分かる〜」を、自分のことをよく知らない相手から向けられたときの、あの感じです。もちろん、人にもよるし、シチュエーションにもよるけどね。

 

不妊治療の現場では、患者さんは皆、それぞれ何かを抱えています。ただし、その「抱え方」は本当にさまざまです。感情を吐き出したい方もいれば、感情的なやり取りよりも、事実や選択肢を静かに知りたい方もいます。

共感を必要とする気持ち自体は、とても自然なものですが、自分のことをよく知らない第三者に寄り添われるより、静かに一人で考え、受け止めたいという方も決して少なくない。共感が必要な場面もあれば、あえて距離を保つ配慮が必要な場面もあります。どちらが正しい、どちらが優しい、という単純な話ではありません。


例えば、だいぶ以前のことですが、毎日飲まなければならない薬を、ほとんどきちんと飲めていなかった患者さんがいました。「なぜ飲まなければいけないのか」という理由も含めて、真摯に説明したことがあります。ところが会計時に、「正直に話したら医者に叱られて気分を害した」という苦情が、受付に寄せられました。

 

その方がそう感じられたのは事実ですし、私の言い方のどこかに至らなさがあったのだと思います。叱るような言い方をしたつもりはありませんが、話の流れの中で内服の重要性が十分に伝わっていないように感じて何度か念押ししたので、その方にとっては圧迫的に感じられたのかもしれません。

 

「今後はちゃんと飲んでくださいね」と営業スマイルでさらっと伝えていれば、波風は立たなかったでしょう。ただ、それで本当に、その後きちんと薬を飲んでいただけただろうかという気もします。こればかりは分かりません。

 

このエピソードは共感とはまた少し違いますが、自分はどうするべきだったのか、感じ方というものは本当に難しいな、というお題として、時々思い出します。

 

もちろん、同じような場面で、真剣に向き合った結果、きちんと服薬するようになり、あとから、「あの時はっきり言ってくれてありがとうございました」と言われた経験も多くあります。色々と考えて、最近の自分は以前よりもライトに説明するようになっていますが、それが本当の意味での優しさなのだろうか、これでいいんだろうかと今でも時々自問自答します。



医療における感情との向き合い方は、本当に難しい。何が正解で、何が不正解という話でもありません。近づきすぎれば重くなり、離れすぎれば冷たく見える。その狭い間のどこかに、その人にとってちょうどいい距離があるはずだと信じて、私たちはこれからも、迷いながら、考え続けていくのだと思います。