どうも、最近ご無沙汰していた淡夏です。
実は最近、"現実"っていう強敵と戦っておりまして。
その影響が、こっちの方にも出ていて、淡夏としての活動に支障をきたしているとか、何とか。
はい、お分かりの通り言い訳ですね。
とりあえず気分を変えて、徒然なるままに近況報告をば。
7月21日のcomic ex-L in 和歌山はお疲れ様でした!
印象としては、女子向けのイベントなのかなという感じはしましたが、何とか一冊だけ買ってくれる人がいました!! (パチパチパチ)
しかも、フリーペーパー見てからの購入というのがまた嬉しい。
次回、9月14日にある文学フリマ大阪に向けて、少しはモチベーションが上がりましたよ。
今度は、今までのイベントよりもオリジナルの小説よりも戦いやすい場だと思うので、しっかり作っていきたいです!!
え、進捗状況?
やだなぁ、ちゃんと分かる言葉で話してくれないと、ハハハ……。
後、淡夏個人にとっても大事件が。
何と、先日のFate Project製作発表会で、Heaven's Feelルートの劇場公開が決定しました!!
もう、ね。
PVの雨に濡れる桜が映った時は、思わず感涙してしまいましたよ。
桜よりは凛派なんですが、それでもHeaven's FeelはFate/stay nightを語る上でかかせない話だと思うんですよね。
それを遂に、ufoクオリティで映像化とか、これが泣かずにいられるか! って感じですよ。
それまでにUBWとか、fakeとか、grand orderとか、色んなFateの企画発表があったのに、見事にラストでもっていかれましたね。
劇場で「約束する。俺はーー桜だけの正義の味方」になるが聞けると思うと……。
うわぁ、やべぇ、早く見たい見たい見たい!!
一回目は一人で見に行くとして、二回目、三回目一緒に行ってくれる人は是非行きましょうよ!!
とはいえ、三部くらいには分けるんでしょうね。
じゃないと、終わらないし。
最後まで、しっかりと付き合いますよ、俺は。
とまあ、最後は暴走してましたが、以上近況報告でした。
それでは!
お久しぶりです。ふりゅうです。
blogの更新をほったらかしにしてて、淡夏氏・鳴向氏ゴメン。
さて、昨日公開されたジブリ作品の最新作、「思い出のマーニー」を見てきました。
まだ見てない人も多いと思うので、読んでも映画を楽しめるようネタバレはごく控え目に感想を。
良い映画だと感じました。
ざっくりとあらすじを説明すると、
主人公の杏奈は、自分は「輪の外の存在」だと思っている12才の少女。
喘息の療養のため、自然豊かな土地で暮らす親戚の下でひと夏を過ごすことに。
その土地で杏奈はマーニーに出会い、二人は友達に。しかしマーニーと共に過ごし、彼女のことを知っていくうちに、マーニーが???であることを知り、
夏が終わり、杏奈は少し成長して帰っていく。
こんな感じでしょうか。
まず、序盤から中盤にかけての杏奈の心情がうまく表現されているなぁと感じました。
自分は独りだ。誰にも受け入れられていない。周りの同級生や大人の無遠慮さが嫌い。
そして何より、そんな周りと上手く関係を築けず、傷つき傷つけてしまう自分のことが大嫌い。
年齢を重ねるうちにある程度治まっていくものですが、子どもの頃にこのような気持ちになった人は多いのではないかと思います。
マーニーは、そんな杏奈と「輪の中」とを繋ぐ契機となる存在となり、最終的には新しい友達も出来ます。
「輪の中の人間」になったとまでは行かずとも、「輪の中」と上手く折り合いをつけられるようになった、という感じでしょうか。
マーニーが???だったという点は、がっつりネタバレになるので伏せ字で。度々登場する夢の描写、杏奈の身体的特徴などから、マーニーの正体を推測するのは、それほど難しくありません。
ただ、推測そのものを楽しむというよりは、杏奈目線でゆっくりと明かされていく内容を楽しむ方が良いかと思います。
自分は結構、感動しました。
余韻も深く、良い映画だったと思います。
ただ、物語の舞台は狭く、やや展開が平坦な印象も受けました。
丁寧だけど、地味。内容こそ全く違いますが、アリエッティと同じ監督という事実を知って、良くも悪くも「でしょうね」という感じです。
そして、子ども達はこの映画をどう捉えたのだろうという点がとても気になりました。
杏奈の心情は、子ども経験者なら理解も共感も出来るけど、杏奈と同じ世代の当事者は、杏奈をどう捉えるのか。
この映画は、見る人の年齢を少し高く設定しているように思いました。
この感想は、「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」を見た時にも抱きました。
最近、金曜ロードショーで「もののけ姫」「となりのトトロ」が放映されていました。
あの時代の、大人も子どもも楽しめるジブリ作品の面影を、最近のジブリ作品に見るのは難しいように思います。
古いものは良く見えがちです。「千と千尋の神隠し」でさえ、もう13年前の作品です。
時代は変化していきます。万人に愛される映画を作るのは難しい時代になったのかもしれません。
今の子どもには今の子どもなりに最新のジブリ作品を捉えていくのだと思います。
僕は「思い出のマーニー」は良い映画だと思います。
しかし、まったく統計的では無いですが、実際に目で見た事実として、子ども達の大半がポケモンの映画の列に並び、「思い出のマーニー」の方はまばらだったのは、少し淋しい光景でした。
blogの更新をほったらかしにしてて、淡夏氏・鳴向氏ゴメン。
さて、昨日公開されたジブリ作品の最新作、「思い出のマーニー」を見てきました。
まだ見てない人も多いと思うので、読んでも映画を楽しめるようネタバレはごく控え目に感想を。
良い映画だと感じました。
ざっくりとあらすじを説明すると、
主人公の杏奈は、自分は「輪の外の存在」だと思っている12才の少女。
喘息の療養のため、自然豊かな土地で暮らす親戚の下でひと夏を過ごすことに。
その土地で杏奈はマーニーに出会い、二人は友達に。しかしマーニーと共に過ごし、彼女のことを知っていくうちに、マーニーが???であることを知り、
夏が終わり、杏奈は少し成長して帰っていく。
こんな感じでしょうか。
まず、序盤から中盤にかけての杏奈の心情がうまく表現されているなぁと感じました。
自分は独りだ。誰にも受け入れられていない。周りの同級生や大人の無遠慮さが嫌い。
そして何より、そんな周りと上手く関係を築けず、傷つき傷つけてしまう自分のことが大嫌い。
年齢を重ねるうちにある程度治まっていくものですが、子どもの頃にこのような気持ちになった人は多いのではないかと思います。
マーニーは、そんな杏奈と「輪の中」とを繋ぐ契機となる存在となり、最終的には新しい友達も出来ます。
「輪の中の人間」になったとまでは行かずとも、「輪の中」と上手く折り合いをつけられるようになった、という感じでしょうか。
マーニーが???だったという点は、がっつりネタバレになるので伏せ字で。度々登場する夢の描写、杏奈の身体的特徴などから、マーニーの正体を推測するのは、それほど難しくありません。
ただ、推測そのものを楽しむというよりは、杏奈目線でゆっくりと明かされていく内容を楽しむ方が良いかと思います。
自分は結構、感動しました。
余韻も深く、良い映画だったと思います。
ただ、物語の舞台は狭く、やや展開が平坦な印象も受けました。
丁寧だけど、地味。内容こそ全く違いますが、アリエッティと同じ監督という事実を知って、良くも悪くも「でしょうね」という感じです。
そして、子ども達はこの映画をどう捉えたのだろうという点がとても気になりました。
杏奈の心情は、子ども経験者なら理解も共感も出来るけど、杏奈と同じ世代の当事者は、杏奈をどう捉えるのか。
この映画は、見る人の年齢を少し高く設定しているように思いました。
この感想は、「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」を見た時にも抱きました。
最近、金曜ロードショーで「もののけ姫」「となりのトトロ」が放映されていました。
あの時代の、大人も子どもも楽しめるジブリ作品の面影を、最近のジブリ作品に見るのは難しいように思います。
古いものは良く見えがちです。「千と千尋の神隠し」でさえ、もう13年前の作品です。
時代は変化していきます。万人に愛される映画を作るのは難しい時代になったのかもしれません。
今の子どもには今の子どもなりに最新のジブリ作品を捉えていくのだと思います。
僕は「思い出のマーニー」は良い映画だと思います。
しかし、まったく統計的では無いですが、実際に目で見た事実として、子ども達の大半がポケモンの映画の列に並び、「思い出のマーニー」の方はまばらだったのは、少し淋しい光景でした。
こんばんは、鳴向です。
改めまして、先日のそうさく畑はお疲れ様でした。
次のイベント参加は7月21日(月・祝)のcomic ex-L in和歌山です。
お品書きはこちら。
どうぞ宜しくお願いいたします。
さて、ちょっと前になるのですが、森ノ宮でやってた「フォレスト・ガンプ」という舞台を見てきたので、忘れないうちに感想的なことを書いておこうと思います。
ストーリーは、1960年代ごろのアメリカが舞台。
知能指数が人よりやや低く生まれいじめられっこだった主人公フォレスト・ガンプが、フットボールの才能を見出されて国内リーグに出場することになったり、ベトナム戦争に出兵することになったり、幼なじみで恋の相手であるジェニーの反戦運動に巻き込まれたり、そのかどで捕まる代わりにNASAの有人飛行実験にチンパンジーと一緒に参加させられたり、それが失敗して不時着した先で未開人としばらく暮らすことになったり、家に帰り着いたら戦争中に友達と約束していたエビ漁師になったり、最後は幼なじみを探してサバナに出かけたり…と、はちゃめちゃな半生をなんとかかんとか「うまくやっていく」フォレストの姿が描かれています。
自分は知らなかったんですが、この「フォレスト・ガンプ」という作品は以前に映画化されて大ヒットしていたんですね。
舞台を見る前に小説と映画をささっと見てみた感じ、小説のあとがきにあったのですが「アメリカの60年代を追体験させ、罪悪を浄化させる存在」としてフォレストが描かれているということでした。
IQが足りず周りにうまくとけ込めないフォレストは、当時の価値観を共有できない今の若者の代表となり、戸惑いながら激動の時代に翻弄されつつ、何とかうまくやっていく。
それが今の人たちに向けて、そのままでも大丈夫なんだよ、という肯定的メッセージとなり、観客に安心感=感動を与えるという仕組みになっているようです。
ところが舞台版のフォレストから受けた感じは、どうも何かが違っているように思います。
原作小説や映画のフォレストは少しブラックユーモアなことも言うし、大きな体でコミカルな動きをするおもしろさを持っているのに対して、舞台のフォレストはとにかくかわいい。
そんなかわいいフォレストが一生懸命生きている姿に、観客は感動させられているのでした。
では、何がこの差を生んでいるのかなあと思いながら、原作(小説、映画)と舞台版との違いを考えてみました。
以下またクソ長い上に、ネタバレ含み、話を知っている人でないと読みにくい文章になっているかと思われます…ご注意ください。
見ていて違うな~と思ったシーンを適当にまとめていきます。
見落としとかあるかと思いますがご容赦ください。
①フォレストの母親
・映画でフォレストに足の矯正具を付けさせていたことが一番端的に表していますが、原作(小説、映画)ではフォレストを「普通」に矯正しようとする側面が強くでていたように思われます。また若干体面にこだわるような素振りも。
→舞台版ではフォレストに矯正具はなし、普通の学校にフォレストを入れようとはしますが、舞台版で追加されているシーンにフォレストの忘れた教科書を届けに学校にやってきて、廊下に立たされているフォレストと出会う、という部分があります。
ここでは母親は「見ないで」というフォレストに対して、「教科書は先生に預けておくわね」と優しく答えます。
教育ママ的な印象の原作よりも、フォレストに対する強制力が減り、またフォレストの性質を受け入れているという印象です。
「母さんはいつも僕に分かるように話してくれた」というフォレストの台詞の繰り返しも原作より強調して使われているように感じられ、やはり同じく母親がフォレストの性質を受け入れているという印象を強めているようです。
・小説ではフォレストを置いて駆け落ち、映画ではずっと家にいる母親。
→フォレストを追いかけてNASAにまでやって来る
結局は職員にうまく追い返されてしまいますが、このシーンは特にフォレストへの積極的な愛情が表れているシーンだったと思います。
あるいは母親が追いかけるという形で舞台に登場するのはフォレストが彼女のことを思い出しているということを表現しているのかもしれませんが。
しかしそうやってフォレストに会いにくる母親とフォレストは、すれ違ってしまってなかなか会うことができません。
フォレストに対する強い愛着は母性愛の裏返しである束縛・家庭への拘束性でもあり、そこから意図せずしてするりとすり抜けてしまうフォレストは、本質的な自由を持っているように見えます。
つまり、母の愛にスポイルされることなく、フォレストの純粋性は保たれる。
・NASAでの飛行実験の後、家に帰ってきて玄関の外から呼びかけるフォレストに対して「どこのフォレスト?そう名乗ってきたのはあなたで11人目よ」と言うシーン。
これも原作にはなかった部分ですが、フォレストに成り済まそうとする人間がいるというところは社会の汚さを、そして母親が姿を見ずに声でフォレストに気づくというところは、そんな社会の中でもフォレストの純粋性が保持されていたことを表しているのではないでしょうか。
声はフォレストと母親が最後に会った子ども(大学生)の頃のまま=本質の保持。
そして母親がフォレストを迎え入れるということで、フォレストの純粋さが受け入れられた、あるいは認められたということになるのだと思いました。
②バッバ
原作でも映画と小説で役回りの違うバッバですが、舞台ではフットボールチームの同期でマネージャーであり、ベトナム戦争で再会し同じ部隊に配属されるという、小説よりのキャラ付けになっていました。
・バッバがフットボールの試合に参加していない理由が、小説では足の怪我という身体的な理由→舞台ではかつて対戦相手に怪我を負わせてしまってから、また人に怪我をさせるのが怖くてコートに上がれないという精神的な理由に。
しかも立場がマネージャーとなっていて、コーチと一緒に舞台上に登場したりと、フォレストとはただの友だちというよりも、優しい=繊細な兄貴分という存在に変化しているように見えました。
・ジェニーと彼氏の逢い引きをフォレストが邪魔するシーンで、原作小説では後でフォレストからその話を聞き「あいつら××××してたんだぜ」(笑)という感じで軽く茶化していたのが、舞台ではバッバもその場に居合わせ、膝を抱えてジェニーと彼氏を見ないようにする、二人が去った後にそっとフォレストに近づいて「あいつらはたぶん…」と言いにくそうに声をかけようとするもフォレストに「言わないで」と遮られ、どこかホッとした様子を見せる…と、随分リアクションの印象が変わっています。
兄貴分の立場に立ったことで、フォレストに対する庇護者の役割を得たのかなという感じです。
あとこのシーンのリアクションから、メンタル的な問題でコートに上がれないという特性がどことなく男性性、あるいは大人になることへの拒否感というように読めてくるようにも思えます。
そのバッバが、フォレストに何を見出していたのか、それはつまりフォレストが純粋性の中にとどまることへの安心感だったのではないかと思います。
③ダン中尉
・途中まではほぼ原作そのまま、軍人としてのアイデンティティを失い、自信もなくして迷走する大人です。
・一番違っていたのが、やさぐれた後、クリスマスにフォレストと再会する場面。
フォレストのことを「ばか」と言われて怒る相手が、原作映画ではきれいなお姉さんだったのが、ゲイとレズの遊び仲間に変わっています。
やさぐれて女の人と遊んでいるというのは、単に堕落した人という印象にとどまります。
しかしゲイ、レズの仲間を友だちとして紹介するダン中尉という図は、彼が社会的規範から逸脱したということを強く象徴するように感じました。
そしてそんな友だちからフォレストを守るということは、恋愛規範的な逸脱からフォレストを守るということを意味し、さらにこれは先のバッバのエピソードと呼応して、フォレストを強制的異性愛体制そのものから守ったということになるのではないかと思います。
恋愛規範的な逸脱というのはそもそも異性愛が規範ですよという価値観があってこそ成り立つもので、逸脱の側に身を置くということは結局強制的異性愛体制の中に取り込まれてしまうということになります。
そういう話がいま所用で読んでる『女になった海賊と大人にならない子どもたち ロビンソン変形譚のゆくえ』(水間千恵、2009、玉川大学出版部)という本のピーター・パンについての章に書いてありました。
そういえばもじゃもじゃ頭のときのダン中尉は少しフック船長の趣がありますよね。
そういうわけで、ダン中尉はこちらの方の意味から、フォレストを守ったという風に考えられます。
こうして、バッバによって異性愛から、ダン中尉によって異性愛体制の逸脱からそれぞれ守られることで、フォレストは子どものような純粋性を保持することとなるのだと思います。
・ダン中尉が関連するエピソードでもう一つ、エビ漁のシーンがあります。
最初はまったく釣れなかったエビが途中で急に捕れるようになるのですが、原作映画ではここのきっかけが嵐によるものだったのが、舞台では嵐の後フォレストがハーモニカを吹いたら、というように変わっています。
嵐だと自然の力が働いて、とか、嵐によって潮の流れが変わって、という感じがしますが、ハーモニカの音にエビが寄ってくるというのは明らかにファンタジーで、そこではフォレストの持つ能力、性質によって良い結果が招かれたように見えます。
ちょっと歌うと動物が集まってくるディズニープリンセスを連想させるこの場面もやはり、フォレストの純粋さ、無垢さの強調のようです。
④その他
・「星空を見ていると自分が何も覚えていないような気がする」という小説の最後の台詞が冒頭にきていたり、フォレストが地学に関する知識を発揮するという原作小説では大学の中でのエピソードが、幼少期にジェニーと一緒に星空を見上げて星座の位置を完璧に覚えているという話に置き換わっていたり、ベトナムでハーモニカを吹いている時に星空の効果が使われていたりと、舞台では「星空」が強調されているように感じます。
星空は世界のどこにいても見えるもの。
原作では映画、小説ともに色濃くアメリカ色を持っていて、そもそもアメリカの混迷の時代を共有していた人たちがターゲットに据えられているのだろうと推測されます。
でも、観客がアメリカに行ったことのない日本人だったとしても、星空ならば、フォレストの見ている景色を共有できます。
アメリカという要素を単なる舞台背景にまで薄め、代わりに星空を効果的に使うことでかえってフォレストの物語に没入しやすくなっているのかもしれません。
・未開人とのチェスのシーン。
原作小説では毎日勝負をして、毎日勝ち続けることになっています。
そのこころは、負けると何をされるか分からないから。
そして最後の日、もう少しで未開人の勝ちで勝負がつきそうになった時、ピグミー族という、フォレストたちが捕まった未開人と敵対関係にある別の未開人が攻めてきて、フォレストとチェス勝負をしていた未開人は食べられてしまいます。
ここでは常に勝つことを求められるという状況の中、負けそうになっても別の力によって「勝ち」の状態が守られ、これがフォレストが「うまくやる」ということを表しています。
一方舞台版では、フォレストに与えられるチェス勝負の条件は「勝ってもだめ、負けてもだめ、勝負をひたすら引き延ばすこと」。
求められる条件が勝負をつけないことというのがどこか現代的です。
そして数週間に及ぶチェス勝負の結果、フォレストは「負けちゃったぁ」。
原作小説での「うまくやる」こととは違って、こちらのフォレストは与えられた価値観に対して素直に負けを認めます。
でもそこには悲壮感や卑屈さはなく、単純に勝負に負けたという結果があるだけ。
子どもはかけっこに負けても負けたという結果があるだけで、そこに負けたから劣っている、と価値を読み込んでいくのは大人なのだという話を聞いたことがありますが、この場合のフォレストの姿はまさしく子どもの純粋さであり、見ている方はそれを認められるところにスカッとしているのでは、という気がします。
・ジェニーとの関係の結末。
結婚後ジェニーは死に、フォレストはリトル・フォレストを引き取って育て、学校へ送り出す(映画)、あるいはジェニーと決別して自分らしく生きていく(小説)というのが原作に描かれるジェニーとの結末でした。
舞台では、サバナでジェニーと再会したフォレストが「結婚しよう」、するとジェニーは「ハーモニカを演奏している間に答えを考えるわ」と言い、演奏の終わりが舞台のエンディングとなります。
ジェニーからの解答は宙ぶらりんのまま。
原作での結末はどちらも「大人になる」ことを意味していました。
家庭の中で世代を再生産するか、家庭を捨てて生きていくか。
それに答えを出さず、宙吊りのままの状態の舞台版のフォレストは、そのことによって、大人にならない、永遠の子ども性を獲得するのだと思います。
これに関しては、原作にあったリトル・フォレストとフォレストの会話のシーンがないことも関係してるのかもしれません。
舞台でのリトル・フォレストはまだおくるみの中の赤ちゃんで、会話ができる年齢ではありません。
それ故に、観客は父としてのフォレストを目にすることがない。
フォレストは「かわいいフォレスト」の姿を保ったままでいることができるのです。
・微妙なこと①
フォレストがかわいいかわいいと言ってきたのですが、マリ○ァナ中毒になるシーンをどう捉えるかは少し悩んでいます…。
あれはフォレストの純粋さの裏返しを見せるという意味で必要だったということでしょうか。
あるいはもう一つ考えられるのが、間違ったと思うことをしたとき、それに気付き、素直に反省できることによってフォレストの透明さを示しているとも言えるかもしれません。
常に正しいことを選ぶよりも、たまには間違えるけど軌道修正できるよ、という方がリアリティがある感じがします。
・微妙なこと②
ジェニーとのベッドシーンの解釈。
ここまでフォレストを子ども子どもと言ってきたので、じゃあここはどう考えるんだ、と思うと頭を抱えるのですが、ただこのシーンもやはり「大人になる」という含意はほとんどなく(この場合それも若干どうかと思いますが)、ただジェニーと一緒に入れることが嬉しい、という感情の発露だけがかわいく描かれていたように感じました。
大人への階段を上りつつも子どもの純粋性を失わないのだ、と言えるのかもしれません。
あるいは、行為自体に意味があるというよりこれは心が通じ合ったということのメタファーとも考えられます。
結局、①から④までつらつらと書いてきましたが、戦争による自己肯定感の欠如に悩んでいたアメリカの若者を救った物語は、社会に強制される役割に押し潰されたり、逆にロールモデルを失ったりしてアイデンティティ不安に陥っている現代日本に輸入される中で、社会的役割に取り込まれることなく、子どものような純粋さを持ったまま「個」を保った人間として「うまく生きていった」フォレストの物語へと形を変え、見ている人に救いを与えたのではないかと思います。
ギフトのような包装紙に包まれた舞台装置はこの世界観を補強します。
この舞台、話の背景にある骨子をかなり書き換えているのに、読後感(?)をそっくり同じように守ったすごい翻案だなと思いました。
と、いろいろ書きましたが一言で言うと「フォレスト天使でした」。
これに尽きます。
以上です。
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改めまして、先日のそうさく畑はお疲れ様でした。
次のイベント参加は7月21日(月・祝)のcomic ex-L in和歌山です。
お品書きはこちら。
どうぞ宜しくお願いいたします。
さて、ちょっと前になるのですが、森ノ宮でやってた「フォレスト・ガンプ」という舞台を見てきたので、忘れないうちに感想的なことを書いておこうと思います。
ストーリーは、1960年代ごろのアメリカが舞台。
知能指数が人よりやや低く生まれいじめられっこだった主人公フォレスト・ガンプが、フットボールの才能を見出されて国内リーグに出場することになったり、ベトナム戦争に出兵することになったり、幼なじみで恋の相手であるジェニーの反戦運動に巻き込まれたり、そのかどで捕まる代わりにNASAの有人飛行実験にチンパンジーと一緒に参加させられたり、それが失敗して不時着した先で未開人としばらく暮らすことになったり、家に帰り着いたら戦争中に友達と約束していたエビ漁師になったり、最後は幼なじみを探してサバナに出かけたり…と、はちゃめちゃな半生をなんとかかんとか「うまくやっていく」フォレストの姿が描かれています。
自分は知らなかったんですが、この「フォレスト・ガンプ」という作品は以前に映画化されて大ヒットしていたんですね。
舞台を見る前に小説と映画をささっと見てみた感じ、小説のあとがきにあったのですが「アメリカの60年代を追体験させ、罪悪を浄化させる存在」としてフォレストが描かれているということでした。
IQが足りず周りにうまくとけ込めないフォレストは、当時の価値観を共有できない今の若者の代表となり、戸惑いながら激動の時代に翻弄されつつ、何とかうまくやっていく。
それが今の人たちに向けて、そのままでも大丈夫なんだよ、という肯定的メッセージとなり、観客に安心感=感動を与えるという仕組みになっているようです。
ところが舞台版のフォレストから受けた感じは、どうも何かが違っているように思います。
原作小説や映画のフォレストは少しブラックユーモアなことも言うし、大きな体でコミカルな動きをするおもしろさを持っているのに対して、舞台のフォレストはとにかくかわいい。
そんなかわいいフォレストが一生懸命生きている姿に、観客は感動させられているのでした。
では、何がこの差を生んでいるのかなあと思いながら、原作(小説、映画)と舞台版との違いを考えてみました。
以下またクソ長い上に、ネタバレ含み、話を知っている人でないと読みにくい文章になっているかと思われます…ご注意ください。
見ていて違うな~と思ったシーンを適当にまとめていきます。
見落としとかあるかと思いますがご容赦ください。
①フォレストの母親
・映画でフォレストに足の矯正具を付けさせていたことが一番端的に表していますが、原作(小説、映画)ではフォレストを「普通」に矯正しようとする側面が強くでていたように思われます。また若干体面にこだわるような素振りも。
→舞台版ではフォレストに矯正具はなし、普通の学校にフォレストを入れようとはしますが、舞台版で追加されているシーンにフォレストの忘れた教科書を届けに学校にやってきて、廊下に立たされているフォレストと出会う、という部分があります。
ここでは母親は「見ないで」というフォレストに対して、「教科書は先生に預けておくわね」と優しく答えます。
教育ママ的な印象の原作よりも、フォレストに対する強制力が減り、またフォレストの性質を受け入れているという印象です。
「母さんはいつも僕に分かるように話してくれた」というフォレストの台詞の繰り返しも原作より強調して使われているように感じられ、やはり同じく母親がフォレストの性質を受け入れているという印象を強めているようです。
・小説ではフォレストを置いて駆け落ち、映画ではずっと家にいる母親。
→フォレストを追いかけてNASAにまでやって来る
結局は職員にうまく追い返されてしまいますが、このシーンは特にフォレストへの積極的な愛情が表れているシーンだったと思います。
あるいは母親が追いかけるという形で舞台に登場するのはフォレストが彼女のことを思い出しているということを表現しているのかもしれませんが。
しかしそうやってフォレストに会いにくる母親とフォレストは、すれ違ってしまってなかなか会うことができません。
フォレストに対する強い愛着は母性愛の裏返しである束縛・家庭への拘束性でもあり、そこから意図せずしてするりとすり抜けてしまうフォレストは、本質的な自由を持っているように見えます。
つまり、母の愛にスポイルされることなく、フォレストの純粋性は保たれる。
・NASAでの飛行実験の後、家に帰ってきて玄関の外から呼びかけるフォレストに対して「どこのフォレスト?そう名乗ってきたのはあなたで11人目よ」と言うシーン。
これも原作にはなかった部分ですが、フォレストに成り済まそうとする人間がいるというところは社会の汚さを、そして母親が姿を見ずに声でフォレストに気づくというところは、そんな社会の中でもフォレストの純粋性が保持されていたことを表しているのではないでしょうか。
声はフォレストと母親が最後に会った子ども(大学生)の頃のまま=本質の保持。
そして母親がフォレストを迎え入れるということで、フォレストの純粋さが受け入れられた、あるいは認められたということになるのだと思いました。
②バッバ
原作でも映画と小説で役回りの違うバッバですが、舞台ではフットボールチームの同期でマネージャーであり、ベトナム戦争で再会し同じ部隊に配属されるという、小説よりのキャラ付けになっていました。
・バッバがフットボールの試合に参加していない理由が、小説では足の怪我という身体的な理由→舞台ではかつて対戦相手に怪我を負わせてしまってから、また人に怪我をさせるのが怖くてコートに上がれないという精神的な理由に。
しかも立場がマネージャーとなっていて、コーチと一緒に舞台上に登場したりと、フォレストとはただの友だちというよりも、優しい=繊細な兄貴分という存在に変化しているように見えました。
・ジェニーと彼氏の逢い引きをフォレストが邪魔するシーンで、原作小説では後でフォレストからその話を聞き「あいつら××××してたんだぜ」(笑)という感じで軽く茶化していたのが、舞台ではバッバもその場に居合わせ、膝を抱えてジェニーと彼氏を見ないようにする、二人が去った後にそっとフォレストに近づいて「あいつらはたぶん…」と言いにくそうに声をかけようとするもフォレストに「言わないで」と遮られ、どこかホッとした様子を見せる…と、随分リアクションの印象が変わっています。
兄貴分の立場に立ったことで、フォレストに対する庇護者の役割を得たのかなという感じです。
あとこのシーンのリアクションから、メンタル的な問題でコートに上がれないという特性がどことなく男性性、あるいは大人になることへの拒否感というように読めてくるようにも思えます。
そのバッバが、フォレストに何を見出していたのか、それはつまりフォレストが純粋性の中にとどまることへの安心感だったのではないかと思います。
③ダン中尉
・途中まではほぼ原作そのまま、軍人としてのアイデンティティを失い、自信もなくして迷走する大人です。
・一番違っていたのが、やさぐれた後、クリスマスにフォレストと再会する場面。
フォレストのことを「ばか」と言われて怒る相手が、原作映画ではきれいなお姉さんだったのが、ゲイとレズの遊び仲間に変わっています。
やさぐれて女の人と遊んでいるというのは、単に堕落した人という印象にとどまります。
しかしゲイ、レズの仲間を友だちとして紹介するダン中尉という図は、彼が社会的規範から逸脱したということを強く象徴するように感じました。
そしてそんな友だちからフォレストを守るということは、恋愛規範的な逸脱からフォレストを守るということを意味し、さらにこれは先のバッバのエピソードと呼応して、フォレストを強制的異性愛体制そのものから守ったということになるのではないかと思います。
恋愛規範的な逸脱というのはそもそも異性愛が規範ですよという価値観があってこそ成り立つもので、逸脱の側に身を置くということは結局強制的異性愛体制の中に取り込まれてしまうということになります。
そういう話がいま所用で読んでる『女になった海賊と大人にならない子どもたち ロビンソン変形譚のゆくえ』(水間千恵、2009、玉川大学出版部)という本のピーター・パンについての章に書いてありました。
そういえばもじゃもじゃ頭のときのダン中尉は少しフック船長の趣がありますよね。
そういうわけで、ダン中尉はこちらの方の意味から、フォレストを守ったという風に考えられます。
こうして、バッバによって異性愛から、ダン中尉によって異性愛体制の逸脱からそれぞれ守られることで、フォレストは子どものような純粋性を保持することとなるのだと思います。
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最初はまったく釣れなかったエビが途中で急に捕れるようになるのですが、原作映画ではここのきっかけが嵐によるものだったのが、舞台では嵐の後フォレストがハーモニカを吹いたら、というように変わっています。
嵐だと自然の力が働いて、とか、嵐によって潮の流れが変わって、という感じがしますが、ハーモニカの音にエビが寄ってくるというのは明らかにファンタジーで、そこではフォレストの持つ能力、性質によって良い結果が招かれたように見えます。
ちょっと歌うと動物が集まってくるディズニープリンセスを連想させるこの場面もやはり、フォレストの純粋さ、無垢さの強調のようです。
④その他
・「星空を見ていると自分が何も覚えていないような気がする」という小説の最後の台詞が冒頭にきていたり、フォレストが地学に関する知識を発揮するという原作小説では大学の中でのエピソードが、幼少期にジェニーと一緒に星空を見上げて星座の位置を完璧に覚えているという話に置き換わっていたり、ベトナムでハーモニカを吹いている時に星空の効果が使われていたりと、舞台では「星空」が強調されているように感じます。
星空は世界のどこにいても見えるもの。
原作では映画、小説ともに色濃くアメリカ色を持っていて、そもそもアメリカの混迷の時代を共有していた人たちがターゲットに据えられているのだろうと推測されます。
でも、観客がアメリカに行ったことのない日本人だったとしても、星空ならば、フォレストの見ている景色を共有できます。
アメリカという要素を単なる舞台背景にまで薄め、代わりに星空を効果的に使うことでかえってフォレストの物語に没入しやすくなっているのかもしれません。
・未開人とのチェスのシーン。
原作小説では毎日勝負をして、毎日勝ち続けることになっています。
そのこころは、負けると何をされるか分からないから。
そして最後の日、もう少しで未開人の勝ちで勝負がつきそうになった時、ピグミー族という、フォレストたちが捕まった未開人と敵対関係にある別の未開人が攻めてきて、フォレストとチェス勝負をしていた未開人は食べられてしまいます。
ここでは常に勝つことを求められるという状況の中、負けそうになっても別の力によって「勝ち」の状態が守られ、これがフォレストが「うまくやる」ということを表しています。
一方舞台版では、フォレストに与えられるチェス勝負の条件は「勝ってもだめ、負けてもだめ、勝負をひたすら引き延ばすこと」。
求められる条件が勝負をつけないことというのがどこか現代的です。
そして数週間に及ぶチェス勝負の結果、フォレストは「負けちゃったぁ」。
原作小説での「うまくやる」こととは違って、こちらのフォレストは与えられた価値観に対して素直に負けを認めます。
でもそこには悲壮感や卑屈さはなく、単純に勝負に負けたという結果があるだけ。
子どもはかけっこに負けても負けたという結果があるだけで、そこに負けたから劣っている、と価値を読み込んでいくのは大人なのだという話を聞いたことがありますが、この場合のフォレストの姿はまさしく子どもの純粋さであり、見ている方はそれを認められるところにスカッとしているのでは、という気がします。
・ジェニーとの関係の結末。
結婚後ジェニーは死に、フォレストはリトル・フォレストを引き取って育て、学校へ送り出す(映画)、あるいはジェニーと決別して自分らしく生きていく(小説)というのが原作に描かれるジェニーとの結末でした。
舞台では、サバナでジェニーと再会したフォレストが「結婚しよう」、するとジェニーは「ハーモニカを演奏している間に答えを考えるわ」と言い、演奏の終わりが舞台のエンディングとなります。
ジェニーからの解答は宙ぶらりんのまま。
原作での結末はどちらも「大人になる」ことを意味していました。
家庭の中で世代を再生産するか、家庭を捨てて生きていくか。
それに答えを出さず、宙吊りのままの状態の舞台版のフォレストは、そのことによって、大人にならない、永遠の子ども性を獲得するのだと思います。
これに関しては、原作にあったリトル・フォレストとフォレストの会話のシーンがないことも関係してるのかもしれません。
舞台でのリトル・フォレストはまだおくるみの中の赤ちゃんで、会話ができる年齢ではありません。
それ故に、観客は父としてのフォレストを目にすることがない。
フォレストは「かわいいフォレスト」の姿を保ったままでいることができるのです。
・微妙なこと①
フォレストがかわいいかわいいと言ってきたのですが、マリ○ァナ中毒になるシーンをどう捉えるかは少し悩んでいます…。
あれはフォレストの純粋さの裏返しを見せるという意味で必要だったということでしょうか。
あるいはもう一つ考えられるのが、間違ったと思うことをしたとき、それに気付き、素直に反省できることによってフォレストの透明さを示しているとも言えるかもしれません。
常に正しいことを選ぶよりも、たまには間違えるけど軌道修正できるよ、という方がリアリティがある感じがします。
・微妙なこと②
ジェニーとのベッドシーンの解釈。
ここまでフォレストを子ども子どもと言ってきたので、じゃあここはどう考えるんだ、と思うと頭を抱えるのですが、ただこのシーンもやはり「大人になる」という含意はほとんどなく(この場合それも若干どうかと思いますが)、ただジェニーと一緒に入れることが嬉しい、という感情の発露だけがかわいく描かれていたように感じました。
大人への階段を上りつつも子どもの純粋性を失わないのだ、と言えるのかもしれません。
あるいは、行為自体に意味があるというよりこれは心が通じ合ったということのメタファーとも考えられます。
結局、①から④までつらつらと書いてきましたが、戦争による自己肯定感の欠如に悩んでいたアメリカの若者を救った物語は、社会に強制される役割に押し潰されたり、逆にロールモデルを失ったりしてアイデンティティ不安に陥っている現代日本に輸入される中で、社会的役割に取り込まれることなく、子どものような純粋さを持ったまま「個」を保った人間として「うまく生きていった」フォレストの物語へと形を変え、見ている人に救いを与えたのではないかと思います。
ギフトのような包装紙に包まれた舞台装置はこの世界観を補強します。
この舞台、話の背景にある骨子をかなり書き換えているのに、読後感(?)をそっくり同じように守ったすごい翻案だなと思いました。
と、いろいろ書きましたが一言で言うと「フォレスト天使でした」。
これに尽きます。
以上です。
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