長らく投稿しなくてすみません。
今日は備中高松城の解説をしたいと思います。
築城された正確な年は不明ですが永禄十二年(1569年)頃と言われています。
天正三年(1575年) 三村氏が毛利に滅ぼされると城主の石川久弐が城を追われ、毛利方の清水宗治が城主となりました。
天正十年 秀吉率いる三万の軍勢が毛利領へ侵攻を開始 毛利方の城を次々と落し 四月十五日 遂に備中高松城を包囲します。
備中高松城は珍しい湿地帯に囲まれた沼城であり、秀吉軍の攻撃を何度も撃退していました。
中々落ちない城に焦りを抱いた秀吉は水攻めに決しました。水攻めの案を出したのは黒田官兵衛と言われています。
城を囲うように作られた堤は、農民に土俵一俵につき、百文と米一升という当時としては非常に高価な報酬を与える約束をした事により、着工より十二日程度で完成したと言われています。
梅雨ということもあり大雨が続いていた足守川の堰をきり 湿地帯に流れ込ませ 備中高松城を完全に湖に浮かぶ孤島と化しました。
完成の翌日、毛利軍の援軍が到着するも、時すでに遅し。 堤は完成し 秀吉軍は後方の山に布陣し 備中高松城救援は不可能となってしまいしまいました。
そんな中一つの報が秀吉のところへ舞い込みます。 京の本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれたという報が織田家家臣の使者より伝えられたのです。
秀吉は毛利にこの情報が漏れる前に早急に毛利との講和を図ります。
紆余曲折あり譲歩した条件で講話が成立しました。
条件は
「備中・美作・伯耆の3か国(の一部)の譲歩と清水宗治自刃」でした。
六月四日 清水宗治は数万の兵が見守る中 城より船で現れました。
誓願寺という舞を踊り 辞世の句を残し 見事に切腹しました。 辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
そして秀吉は京へ大返しし、光秀を討つのでした。