千代の富士全盛期 最大の強敵

ついに1回も優勝はできなかったが、80年代後半の、全盛期に向かう千代の富士と最もいい勝負をしていたのが双羽黒北尾(対千代の富士戦6勝8敗。もっとも他に優勝決定戦で2敗しているが、それは千代の富士との同点が2回もあったということでもある)。

大相撲には「準優勝」を表彰する制度はないが、優勝次点、または同点が合わせて7回。

 

 

双羽黒(右)対千代の富士(写真はすべてNHKエンタープライズ「昭和の名力士 六」より画面を撮影)

 

横綱昇進時に、それまでの本名の「北尾」から、春日野理事長から、立浪部屋ゆかりの二人の横綱、双葉山と羽黒山の名を取って「双羽黒」の四股名を送られたことからも、いかに有望視されていたかが伺える。

 

(私の父が「四股名だけなら史上最強だな」と言っていた。ただ私は、同様に二人の四股名をミックスした千代の富士[千代の山+北の富士]がすっきりまとまっていたのに比べると、いかにも二つの名前をくっつけた、いわゆる木に竹を接いだ感じで、あまりいいとは思わなかった)。

 

あのような形で引退(当時の用語では廃業)しなければ、千代の富士と時代を二分していたかも知れないし、のちに台頭してくる貴乃花の壁となって立ちはだかっていたかも知れない。

最後まで大相撲を好きになれなかった

だが、この人の場合、相撲の才は類を見ないものだったが、相撲界という場所には向いていなかったとしか思えない。

 

相撲評論家・小坂秀二は「・・・私は、北尾には、どこか信頼し切れないものを感じていた・・・相撲に自分を賭けている姿勢が感じられな」かったと記している(『昭和の横綱』冬青社264ページ)。

 

 

それは、逆に双羽黒の側から言えば、どうしても大相撲というものが好きになれなかったのだろう。

 

幕下時代から有望視されながら「すぐいなくなったり、相撲界で言う「イタイタ(痛痛)を決めこんで休んでばかりだったので(幕下で)三年もかかった」(『昭和の横綱』264ページ)ことからも見て取れる。精神力が足りないといえばそれまでだが、小坂も「相撲界そのものが嫌いだったのだろう」と言う(同267ページ)。

 

そんな好きでもない相撲界の最高位に、千代の富士の一人横綱が続き、次の横綱が欲しい協会の、多分に政策的な事情で上げられてしまったのは一種の悲劇だった。

彼を活かす道は全く違うところにあったのではないか

ただ、小坂がさらに続けて「プロレスに入ったり『冒険家になる』とわけのわからないことを言ったりして、結局何一つまともな結果を生んでいない。何事にも打ち込めない、本気になれない気の毒な性格なのであろう」(268ページ)と言っているのには同意しない。

 

中学卒業と同時に角界入りし、他の世界を知らないまま一人で生きていかなければならなくなったとき、恐らく何をしたらいいかわからず「スポーツ冒険家」という「わけのわからないこと」をしてしまったり、力士の転向の定番だったプロレス入りなどしたが、他に彼を活かす道があったと思う。

【実は物静かな人?】

多分、当時の力士には珍しかったと思うが、現役の頃から趣味はパソコンで、サバイバルナイフの収集などもしていた(ナイフの手入れをしていて、手を切ってしまったということもあった)。立浪部屋の個室には大きなテレビと音響装置があったのを当時の相撲番組(「OH!相撲」)が紹介していたのも覚えている。

 

あの巨体からは想像しにくいが、性格的には、相撲はもとより、体育会系向きではなく、インドアで一つのことに打ち込むというタイプだったのではないだろうか。なまじ体があり、体力もズバ抜けていたために、当人にしてみれば不本意な道を歩まざるを得なかったのかも知れない。

 

後半生は寂しかった印象だが、その彼に、このような家庭があったことには救われる思いがする。↓ 

救われるといえば、NHKの「昭和の名力士」DVDシリーズには双羽黒が入っていないが、ベースボール・マガジン社の「大相撲名力士風雲録」には、ちゃんと入っているのもホッとする。

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