きれいな論は気持ちがいい論ではない。一般論は感覚があるのできれいな気がするが、ウブい。究極のシンプルさ。きもちの悪い論がいいわけでもない。京都の一般教養は人生経験としてのポジティブさを求めていたと私は理解する。ポジティブになれなかったらうつ病になる。そしてそれをみな、人生経験に由来するのみであると勘違いする。事実は様々な種類のやり方がある。
ただし、感覚の複眼性をもった論がきれいとか、きたないとかいうことも違う。自己対話に入っていって視点が交差する。セキュリティーイシューでもない。スタックする一歩手前だと理解したほうがいい。このときに、論をはずさなければならない。
そして、「社会を構成する人間は自己対話や複眼性をもっているはずである、という、イメージがある。」私の場合はループすることがある。
きれいな論、きれいじゃない論というのは感覚的な気持ちよさではないし、ウブさでもない。