主導とか、主権とかいいますが、リーダーシップを誰がとるのかという課題にぶつかることが当然今までずいぶんありました。全国一律という問題は、主体性の議論ですめばいいものの、さらに生活設計に及び、翻ってマスコミの可能性にもなります。ここから先が課題です。産業やインダストリー、セクターと消費者の関係による議論がthe old normalだったのですが現在は中途半端でない安全保障の状態が関わっています。つなげることと、システムとしてどこかで、切ることも判断をする人間が重要なのではないかと思います。確かに地政学的といいますか、「地形的」に可能な都道府県もあります。ところが、先ほどの主体性の論からすれば文字文学のインフラストラクチャーが昔より、どのくらい昔かということは存じませんが、変わっていないというanalysisができてしまいます。その観点を膨らませれば建設に及び、当然例ですが、言語学者、歴史学者が考える部分のある国々と違い、文学部はそのものとして、テーマをもらうということ「のみ」のような気がします。
私は、私の立場や環境で5紙を読ませていただいていますが、いちおう考えていることを申し上げます。
日経新聞は初期は、アメリカ側が入っていったものの潰され、完全に国家側の判断として形骸化したままつづけておられます。微妙な判断もあったかと思われますが、ネットワークを分析されたこととスタッフの数的不利、さらに分析の拙さもあり、いまだにリカバリーが難しい状況が続いております。ここまでにします。
産経新聞は新聞社が分析を綿密にしておられ、論調をあまり変えないようにしながら、整理をしております。
毎日新聞は、国内リベラルとしての分析になります。本格的に外国を歩調をあわせるかといえば、そういう場面は判断が分かれると私どもは感じておりました。
読売新聞も分析を同じく綿密にし、東京を中心とした論調にあえておさえようという判断があるかと思います。
朝日新聞はこちらの意図をほんとうによく分析していて、一致点を見出そうとされている記事をみかけるときもあります。
私の理解はこのようです。