現在のメディア、コンバセーションで、漢字についてのイメージは変化しており、その区別のためにこのようなコンセプトを掲げてみました。「ジャーナリズム論」というのは旧来の「新字源」や漢和辞典に掲載されている意味そのものやその成り立ちと考えてください。一方、「メディア論」はプロタゴニストの話にあるような意味を付加した、イメージ付きのものを説明しています。もう少し適切なタイトルがあればいいとは思いますが、このブログでは許容をしてください。ただ、議論の土台として正確な表現が欲しい場合には使用していただければ幸甚です。

 

過去、「訴訟案件としての命名法」という不穏当なタイトルをつけていたので、その点は可能性がないことにより、削除したいと思います。この項目は無数のテーマがあり、(果ては国外にまでイメージが及ぶことから、)非常に繊細な議論の末に決着が図られなければなりません。現状最も懸念されているものの一つであり、報道のいわゆる「二軸的論争」により確実に犠牲となるテーマとなります。

 

私が感じておりますのは、さらに根深い問題があることです。日本語は深く、語数も多く、知的な分野に秀でている人なら表現は手に取るように浮かぶこともあるでしょうが、大多数の人々は、絶対的とは言わずともフォロワーであり、そういう意識をせずとも生きていく道が得られるところが日本という社会の長所の一つではあったかと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん、その点もさまざまな地域によって微妙に違っているのでしょうが、ある程度集約的に、考えるために「漢字」を取り上げてこのようなタイトルにまとめました。幅広く、熟語や口語を含めて、同じ集約されたテーマで、会話をしていただければな、若干でもストレスの緩和になればいいなと思っているところでございます。

 

また、別の観点として、読みやすい文章とは、漢字とカタカナ語とひらがなの比率が何対何対何で、ある、という記事を5年くらい前に私はみた事があります。現在、社会はより高度化しており表現は、耳慣れないものも多く、少しずつさまざまな文体が変化をして「きて」いるように思いますが、お互いが元々のように、見えない壁を少しでも意識せずに、コンバセーションできるような環境になればいいと感じております。