本日、仕事の合間をぬってすみだ郷土文化資料館にて開催中の「戦争孤児 東京空襲と残された子どもたち」を鑑賞。
空襲によって親を失った子供たちが戦後どの様に扱われ、育っていったのか、を示す資料が展示されていました。
今回の展示で孤児の方々の手記やイラスト、ビデオ証言でその生々しい実態を垣間見ることができ、有意義な時間を過ごしました。
以下、配布資料より引用します。
~~以下引用~~
第二次世界大戦により、両親を亡くした戦争孤児が多数生み出されたことは周知の事実です。しかし他の戦争体験者に比べ、孤児達の証言が一般に伝えれれることは極めて少なく、その実像はほとんど知られていません。
資料館ではこれまで、空襲体験がもたらす心の傷ゆえに証言できない、という多くの方々に接してきました。しかし孤児の証言記録が乏しい理由には更に複雑な背景があります。戦争による親族の死の衝撃に加え、戦後のいわれのない偏見と無理解に根ざした放置・差別は、孤児達が口を閉ざす大きな要因になってきました。
東京の戦争孤児はいかにして発生し、戦後、どのように生きてこられたのでしょうか。孤児達自身の証言・記録・写真・絵画の展示を通して、東京の戦争孤児の実態を紹介します。
昭和22(1947)年12月当時、20才以下の両親をもたない孤児総数は12万3511人、そのうち8才から14才までの学齢期の子供が57731人で全体の約半数を占めるとする厚生省の調査記録があります。その多くは空襲で両親を亡くした戦争孤児でした。戦争孤児は社会の中でどのように扱われてきたのでしょうか。
昭和19(1944)年8月に、マリアナ諸島を占領した米軍は、長距離爆撃機B29用の基地を建設し、同年11月以降、日本全土が空襲の危機にさらされることになりました。
この事態をうけ、東京都は、昭和20(1945)年1月に、空襲で犠牲となった保護者の代わりに孤児の保護を行うことを目的とした機関、東京都疎開学童援護会を設立します。前年より、国民学校(小学校)3年以上を対象に学童疎開が本格的に実施されていましたが、都市空襲で疎開中に両親が死亡するケースが想定されたため、当該機関が設立されたのです。
この機関は、東京空襲後、5月に世田谷区に戦災孤児援護学寮(二子玉川寮)を開設し、孤児を収容しました。このほか、昭和19(1944)年10月に開設された戦災援護会によって開設された杉並区の「子供の家」には、乳幼児の孤児が収容されました。しかしいずれも、収容者はごく少数にとどまりました。
・・・中略・・・
このように敗戦前から戦争孤児対策は計画・立案されていましたが、予算措置が講じられず、結局、具体化できないか、効果の乏しい、ごく限られた実施にとどまりました。そしてむしろ戦後になってから、孤児達は苦難の道を歩み始めることになります。
深川区(現江東区)の鉄工場経営者の末っ子として生まれた永田郁子さんは、9才の時、東京大空襲で両親と姉3人を亡くし孤児となりました。敗戦後、郁子さんは愛知県の母の実家に引き取られることになりました。しかしそこでは、母の荷物を勝手に処分されたり、物がなくなると無実の罪を着せられたり、食事も「居候に二杯も食べさせるな」と言われるなど、差別的待遇を受けます。親戚中から厄介者扱いされた郁子さんは、金沢にいた兄の元に身を寄せますが、兄も就職先で入寮するため、その知人宅を転々とせざるを得なくなります。ある日、ついに帰る場所がなくなり、神社で数日間、野宿することになりました。心まで凍てつく真夜中の神社で、一人、亡くなった親を偲び過ごす毎日です。その後、自分を探していた兄と出会い、ようやく野宿生活から抜け出すことができたのでした。
城東区(現江東区)で育った金子トミさんは、昭和20(1945)年8月、15才の時に、山形県の母の実家に疎開中、幼い弟・妹2人とともに孤児となりました。叔父から栃木の父方の実家に行くよう言われたトミさんは、「ここで養ってもらえないのに付き合いのない親戚が面倒をみるわけがない」と思い、東京の実家を目指しました。しかし家は跡形もなく焼け落ちており、やむなく上野駅に出て浮浪児となりました。夜は駅の地下道で、雨の日は便所の便器の上に板を渡して過ごす毎日でした。目の前では次々に浮浪児が亡くなっていきます。人通りはあっても食べ物を恵む者はなく、トミさんは所持していた僅かな現金を下着の下に隠し、行商人からサツマイモを買い、飢えをしのいだのです。
それまで家族に大切に養われていた子供達が、空襲で一夜のうちに境遇を一変させ、引き取られた親戚・知人にも差別を受け逃げ出さざるを得なくなり、浮浪児に転落していくのです。親身に孤児の世話をした養父母もいましたが、逆に保護者の差別・虐待による苦しみが不断に浮浪児を生み出していく構造が、戦後の社会の中に存在していました。
金子さんは浮浪児だった頃、「つかまると牢屋に入れられ水をかけられる」と聞き、「狩り込み」と呼ばれる浮浪児の強制収容が最も恐ろしかったと証言します。常に生と死の境目にある浮浪児は、物乞い、靴磨き、新聞売り、モク(吸い殻)拾い、露天商の手伝いのほか、スリなどの非合法手段でかろうじて日々の糧を得る子もいました。
・・・中略・・・
空襲による両親の死は、当時のすべての子供達に襲いかかっても不思議ではない事態です。したがって戦争孤児は、決して特殊な存在ではありません。誰にでも起こり得た問題としてとらえ、今、改めて孤児達の証言に耳を傾ける必要があるのです。
~~引用終了~~
展示品中、一葉の写真に私は惹き付けられました。孤児の腕にヒロポンの注射痕があるか確認している医療関係者の様子を写したものです。混乱期の最下層に置かれていた孤児を食い物にしていた連中がいたという事を示しています。戦後の社会の混乱と人心の荒廃が孤児達を犯罪の加害者にも被害者にもした、そういう狂気の時代だったのでしょう。或いはいつの世も変わらない人間の業なのでしょうか。
幼くして孤児となり、不遇な生活を余儀なくされた彼らこそ戦争の最も悲惨な被害者ともいえます。非戦闘員たる一般市民を大量虐殺した空襲は憎むべき戦争の一断面とはいえ、切なく重苦しい気分を覚えます。
私が子供だった頃、自宅近くの上野駅、特に不忍口は敗戦直後の雰囲気を色濃く残していました。義手義足を付けた傷痍軍人が寄付を募っていた光景が今も目に焼き付いて離れません。拙宅の周辺も昭和40年代には所々に「終戦直後」を感じさせるスポットが存在していたのを思い出します。
余談ですが最近、戦後建てられた看板建築が急速に解体され無くなっています。今のうちに記録を残していかなければいけないと思いました。