ただよび講義動画第2講解答詳説 | 宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

大学入試予備校
現代文講師

河合塾→東進→登録者35万人YouTube予備校『ただよび』校長→online塾bridge+校長(←いまここ)

鬱屈した日常を、少しだけ斜に視ることで、風を吹かせられたら…
と思います。

受験勉強の箸休めに、どうぞ。




幾つかこのブログにもコメントをいただきました。動画の中で採用する設問は簡単に見えてその実奥の深いものを殊更選択しています。安易に正解が出ない場面もあり、そこに議論のあることは担当講師として喜びでもあります。


感謝を込めてこの解説小文を寄稿させていただきます。





設問にある「鰐皮のような舌触り」という比喩表現は「声に出してみた時の違和感」と読むのが素直な理解です。そこを肯定した上で、以下の説明をします。




まず端的に結論だけを申し述べます。

この表現は文脈から、看板に書かれたフラマン語の文字をアルファベットの綴り字通りに低く口ごもるように声にして発してみたものの、やはり馴染めなさは払拭できなかったという筆者の言語的な孤絶感を、比喩を通して象徴的に表現した趣旨と解するべきでしょう。


なぜそういう解釈になるか以下詳説します。



課題文では、見慣れない看板、馴染めない文字・・・言語的な親和性を一切感じさせない外部環境(ブリュージュ)から、まるで拒絶されたかのように段々と孤絶を深める筆者の姿が描写されています。その文脈の先で、「匂いから」目前の店舗らしき場所をレストランであると「すぐに」認識した筆者が、看板に書いてあるフラマン語への違和感から、まるで拒絶されたかような気分のまま入店を断念したというのがここの文脈でした。



看板の文字をアルファベット通りに発音してみた件の部分は、試しにおずおずと(低く)声に出してみたところで、やはりそのフラマン語の看板文字には違和感しか感得できなかったということを表した文脈です。なるほど馴染みのない単語を読んでみたわけですから、流暢な発声にはならなかったのでしょう。しかしそれでも「フラマン語」の発音が困難であったと読み取ることはできません。なぜなら直前の内容から筆者は英語やフランス語には造詣があってもフラマン語にはまるで門外漢であるのが明らかだからです。要するに彼は、看板の文字を、自分にも可能な「アルファベットの」綴り字通りに発声してみたわけです。試しにそっと口に出してみた。だからこの「発音」自体には技術的に特段の問題はなかったとするのが自然な読み方でしょう。あえて指摘するなら、ここの文脈で筆者は、看板の文字を「フラマン語として」発音し読んだものではなかった点は見逃してはいけません。そうするとこの文脈の理解は、口ごもるようにおずおずと声にしてみたその看板の言葉には、やはり馴染めなさしか感じる他なかったという、異国の地における言語的な疎外感を意味したものと解する他はないことになるでしょう。


以上から選択肢①のように「発音」という純技術的側面に特段の困難性があったように読むのは行き過ぎた解釈ということになるはずです。再度注意を喚起します。注意すべきなのは選択肢①には「フラマン語」の発音が「非常に」難しくてという表現があり、「フラマン語」としての「発音の難しさ」に「ことさらの強意」があることです。筆者はあくまで「アルファベットの綴り字」通りに発音したものであったことを忘失してはいけません。①の選択肢からは、入試現代文のいわゆる「ひっかけ」の臭いを読み取るべきです。


つぎに②の選択肢についてです。これは「自分の舌」という自身の肉体に違和感を感じた内容になっていますが、この文章で筆者は、自分の肉体という内部に対してではなく、外部世界の文字群に対して皆目見当がつかず、ある種の疎外感を覚えています。ところが選択肢②は、「外部」世界への違和感ではなく、自身の身体「内部」への違和感を表現したものとなり、これでは解釈の方向性が真逆になったものと断ぜざるを得ません。よって②も選べないことになります。


さらに④の選択肢ですが、冒頭に「意味が分からない」フラマン語に対する苛立ちのあまり、という表現が見られます。ところがこの直前の文脈を見ると空腹で彷徨う筆者には「匂い」から当該店舗がレストランであるということは「すぐに」「分かっ」たという内容があります。つまり見慣れた文字(レストランという文字)はなくとも、その看板の文字が「レストラン(食堂)」を表示したものであるという「意味」は了解していたと解するべきでしょう。そこで(口に出してみた看板の文字の)「意味がわからない」ことから来る「苛立ち」が発生する理由がないことになり、④も外れることになるわけです。看板が必ずしも食堂との表記ではなく店名である可能性も否めないとの解釈も不可能ではないですが、入試現代文の読み方はあくまで「何も足さず何も引かない」距離感が肝要です。空腹の筆者が彷徨いたどり着いた挙句そこがレストランであることは明確に認識しており、看板の文字にレストランという見慣れた表記はなく、フラマン語の表記のみしかない状況である旨の文脈が明確である以上、少なくとも「意味が分からない」と解釈するのは適切ではありません。要するに筆者は見慣れない風景と馴染みのない文字群の中で、空腹で食事を摂りたいと思い食堂にたどり着いたものであるからです。



そうなると残る選択肢③が正解として有力な候補となるわけです。ただこの③も③で、正解と言い切るのには解釈上の「ジャンプ」を必要とするため、一見正解ではないと考えてしまうかもしれません。


どういうことかと言うと、選択肢③はフラマン語の文字が気持ち悪いものに「見えた」と表現しているため、「発音」してみた際の違和感とイメージの上で直結しにくいからでしょう。「声」にしてみた時の発声にまつわる聴覚的な違和感と、文字への視覚的な違和感とに、表現上の距離を感じるわけです。確かに選択肢③のこの表現にはある意味で不自然さがあることは否めません。


ではどうして③を正解とすることができるのでしょうか。

これは比喩の解釈問題に帰着するように思います。


ここは「(筆者にも判読可能であった)(アルファベットの)綴り字通り」に発音したという箇所と、「(アルファベットの)並び具合もまた」(海獣のように見えた)という箇所が解釈の決め手になるように思います。これはあくまで「見た目通り(=綴り字通り)に」読んでみても(言葉の響きに)違和感が否めず、並び具合という「視覚的な要素にも」馴染めなさが残るという文脈である点に注目してみてください。


ここ(ブリュージュ)には見知った文字が皆目見当たらない。そうした意味不明な世界にあって、残酷なほど拒絶されたかのように不安を募らせる筆者が、空腹のあまりたどり着いた食堂の看板を、さしあたり「見えるまま」(=綴り字通り)に「声にしてみる」がダメ、「見えるまま」(=アルファベットの並び具合)を観察してみてもダメ、どうあれ結局違和感しか持てなくてダメという具合に、言語的な自閉を強めていく場面描写です。


表現そのものはなるほど「声」に出したときの違和感として描写された箇所ではあります。それでもその表現を通して伝えたいことは、「(課題文冒頭にある通り)外国にあって悉皆文字に馴染みがなく戸惑った経験」を具体化する文脈趣旨からは外れることはありません。要するにレストランという「看板の文字」を、文字通りに声に出してみても、文字通りの並びを観察してみても、という文脈は、看板のフラマン語に対してもろもろ試みるも結局違和感は払拭し切れず、ついには入店を断念する場面であったと理解するべきです。空腹にあえぐ筆者が、自分にも了解可能な言語(英語ないしフランス語)にかこつけて、言語的な繋がりや馴染みを希求する必死な姿は、ある意味で哀れですらあります。それでも結局違和感を払拭できないままついに入店を断念するという文脈展開であることに注意しましょう。結果としてここは、看板の文字から来る「視覚的な違和感」を「声に出して」みてもやはり払拭しきれなかったのだ、という内容を読み出すことは可能であるということに気付いてください。



このように文章解釈は、直近の文字情報だけに着眼すると意外な引っ掛けに陥りやすく、長く文脈を追うときちんと解釈が安定するという傾向があります。


とくにこの第2講は近視眼的な解釈を先行させやすい受験生に対して、注意を喚起する指導上の意図があって、あえて上記のような精妙な解釈を必要とする設問を用意したものです。


簡単な語彙で読めるレベルの文章であたかも難問でないかのように感じさせつつも、入試本番の試験ではおそらく受験生の合否を分けるかもしれない重要な論点を含むような設問を、10分強で解説しきるという制限枠を意識して選んだものです。



現代文の解釈に侃侃諤諤の議論が百出することはある意味で健全なことで、視聴者が熱心に取り組んでくださっている証左ともなるものです。この意味でコメント欄に様々な見解が現れたことは、担当講師として望外の喜びでもあります。そこで今回は特にこうした解説記事を発表しました。しかしながら上記のような詳説を、毎回のごとくブログで書き起こして開陳することは、残念ながらこのブログの主旨とも、ただよび動画の主旨とも異なるものであり、難しい現状である点はどうかご理解ください。


ただよびでの授業は現段階ではあくまで10分強という短時分です。精一杯伝えるべき内容を盛り込むため、時として詳説を尽くすのは困難な場合もありましょう。講師としてそれは非常なストレスでもあります。そうした制限された条件下であっても、どうにか入試現代文を自力で読み解きができるようにと願って、今後もさらに工夫を加えて全力を尽くして参りたいと思っています。





諸々どうか含み置き、「ただよび」を真っ直ぐ信頼して付いてきてください。


コメントをくださったたくさんの視聴者の方々に、心底の感謝を込めて。