このままでは、夢が現実と化してしまうとも限らない。大輝は命を絶ちかねない。
それを阻むために何が出来るかと僕は考え抜いた。
毛布を頭まで被って暗闇に身を委ねているとき、唐突にそのアイディアは舞い降りてきた。
何のことはない。
ありのままの気持ちを素直に伝えればいいだけなのだ。
ごめんねと、そう大輝に言えばいいだけなのだ。
思い立つと僕はすぐに起き上がり、手汗で滑りそうになりながらも携帯を摑んだ。
大輝は携帯を持っていなかったはずだが、連絡網ぐらいある。
連絡網をプリントの山から掻き分け、大輝の家の番号を探り当てるまでに五分とかからなかった。
心臓がばたばたともがくのを感じ、携帯を開く。十時半過ぎ。
迷惑だろうかと思いはよぎったが、大輝の家族のことまで視野に入れている余裕はなかった。
こういう繊細な問題は時に一刻を争う。
単調なコール音が、押し当てた携帯から伝わる。
携帯が震えているということは、それを摑む僕の手が震えているということだ。僕は緊張していた。
コール四回で回線は繋がり、僕は思ったよりずっと低くひび割れた声で言った。
「あ、もしもし」
『もしもし』
こちらの意図を図りかねるようなぶっきらぼうな声が応じる。
大輝、だった。
「――」
『……どなたですか』
「颯だけど……大輝、だよね?」
『そうだけど……」
――なあ、ごめんな。もう見て見ぬふりなんてしない。
明日学校に行ったら、すぐに先生に言ってやるよ。だから……
『もしもし? 颯?』
脳裏に思い描いたその言葉がどうしても滑り出てこない。
何とか口を開けても、酸素の足りない魚のように口がぱくぱく動くだけで、音らしきものは発せられない。
そうしているうちに、電話は切れた。
息を弾ませ、足元もおぼつかないまま、僕は暗闇を駆けていた。
今度は夢だということをはっきり悟った。
いつどこから鮮血にまみれた大輝が飛び出してくるとも分からない。
僕は覚悟を決めて尚も走り続けたが、大輝が現れることも、光が差し込むこともなかった。
とうとう光が差し込まないまま、夢にさまよう僕は、
濃紺に覆い尽くされた世界の果てに、愕然と膝をつくのだった。
時計の針が、五時半過ぎを示している。
目を覚ましてみると、僕はどうやらいつもより一時間も早く起きてしまっていたようだ。
夢の反動か、光を浴びたくなってカーテンを開けた。
四角く切り取られた世界の向こう側で、灰色の空が広がり、鉛色の雲が重たくたちこめている。
幾度となく繰り返された朝は、それでいていつもとは明らかに違った様子を呈していた。
軽い眩暈すら感じながら佇み、どれくらい経ったのだろう。
今度は階下から響く固定電話のコール音が僕の魂を引き戻した。
こんな早い時間に誰だろうと回らない頭で考えつつ、とりあえず階段を駆け下りる。
「はい。もしもし」
『……っと、颯くん?』
知らない女の人の声が言った。
「……・そう、ですけど」
『すみません、私、大輝の母親です』
「あ、大輝の――え?」
どうして大輝ではなく母親? どうしてこの時間? どうしてうちに、いや、僕に?
僕が言葉の端に込めた全ての疑問符を拾って、大輝の母は厳かに告げた。
『亡くなったの、大輝』
立ち尽くしたまま、僕には何をすることもできなかった。
受話器を握り締めた手の感覚がなくなり、視線を落としていたフローリングが滲んだ。
色を失くした世界にただ空虚に浮かび、今鏡を見たなら血まみれの自分が映るのだろうなと、
そんな馬鹿げたことを考えている自分がいた。
これ以上赤黒く染まった世界を目の当りにするのは御免だ。
僕は家を出るとすぐに俯き、足早に歩いた。
地面を覆った純白の雪が、心の澱まで洗い流してくれることを切に祈りながら。
いつもの待ち合わせ場所に、またもや龍也はいなかった。
深刻そうに顔を伏せていた渚は、僕が近寄るとすぐに顔を上げた。
「おはよう」
「うん」
型通りの挨拶もそこそこに、僕らは龍也を待たずに歩き出す。
そもそも龍也が来るはずなどないのだ。来ていいはずなどない。
龍也が来ないのは、少しでも後ろめたさを感じているからではないのか。
曲がりなりにも罪悪感に苛まれて、僕らに、クラスメイトに向ける顔などないと彼なりに結論づけ、登校拒否したのではないのだろうか。
それならばまだ救いはある、と僕は思った。
龍也が少しでも申し訳ないと思っているのなら、大輝は報われる。
大きな代償を返すために、龍也は更生するだろう。
少しだけ気が楽になったところで、渚がぽつりと話し始めた。
「どうしたらいいと思う?」
「ん?」
尋ねる僕に、龍也のこと、と渚は答えた。
「告げ口はしたくないんだ。でも、黙ってただ見てるだけっていうのも辛くて」
どうしたらいいかな、と眉間に皺を寄せる親友を眺めて、ひとつ気付いた。
深く傷ついているはずの渚が、血を流していない。
通学路を行き交う人垣、散歩中の老人にも目を走らせたが、
朱色に染められた様子の人は一人もいない。
大輝の死を境に、能力が、消えた?
何のために?
いや、そもそも、何のためにあの力は芽生えた?
「颯は、どう思う?」
そう問いかけられた瞬間、唐突にそれは舞い降りた。
あの力は、僕に二度と過ちを犯させないためのものだった?
それが芽生えたとき僕は、
大輝が抱えた傷を、僕に広がる傷からも、目を背けようとしていたはずだ。
だから。
目を逸らさせないために。現実を直視させるために。
そうだとしたなら、僕が下すべき決断は、一つしかあり得ないはずだった。
「大輝をいじめていたのは龍也。僕と渚は加担はしなかった」
「そう話せばいいんだね? いいよ、それが事実だ」
「ただ、止めることもしなかった」
「うん?」
「止めようともしないで、傍観していた。傍観も同罪だ。だから僕らも、きちんと頭を下げよう。逃げたら多分、一生後悔すると思うんだ。それでいいよね?」
これでいい。
優等生ぶっているかもしれないが、多分それが一番正しい。
目は背けない。背けてはいけない。
「分かったよ」
渚はそう言うと、安堵したように微かに笑ってみせた。
渚はきっと僕よりも悩んでいたのだろうと思う。
大輝の母からの知らせを受け取った時から、多分今まで、ずっと。
「そうだ」
「ん?」
渚に、まだ言えていなかった。
六年間接してきたのに、一度も伝えていなかった。
言おうと思えばいつでも言えたのだろうとは思う。
けれど、タイミングがないのを言い訳に、今まで言えずにいた。
「ありがとうな、渚」
「どうしたんだよ、急に」
照れくさそうに渚が柔らかい笑みを浮かべた。
「一緒に頭下げてくれるんなら心強いって意味だよ。あ、あと」
「今度は、何?」
もう二度と、大切なものは失くしたくないから。
「これからも、親友でいような」