君に伝えたいことがあるー中ー | BLACK-SKY

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ひとりごととか、小説だとか。

取るに足らない言葉たちの遊戯会。




闇の中に一筋の光が差し込んだ。

拓けた道の先、光で照らされた場所に、誰かが佇む背中が見える。


あの紺のジャンパーは、丸まった背は――


「おーい! 大輝!」


もつれる足と格闘しながら、何とか大輝の元へと走り寄る。

ずっと言えないでいたごめんねを言うつもりで口を開きかけたときだった。


「いいよ、気にしてないよ」


そう言って振り返った大輝に、もはや顔はなかった。

首の上にはただ、ずたずたになった赤黒い塊が乗っかっているだけだった。














部屋一杯に鳴り響くベルの音が溢れ、鼓膜を揺らす。

飛び起きた僕はもはや汗だくで、黒のスウェットが胸に張り付いているという有り様。


逸る鼓動をなだめるようにひとつ深呼吸をすると、ゆっくりと脳が弛緩していく。


先程のはどうやら夢だったようだ、ということは認識できたけれど、

どうにもリアル過ぎるのが謎めいていた。


この夢と、昨日の出来事は関係があるのだろうか――


――いや、もしかしたら昨日のあれも、夢だったのかもしれない。





そんな楽天的な思いを抱いたまま、制服へと着替え、階下へ降りていく。


お父さんが啜る味噌汁の音。弟がパンに塗りたくる苺ジャムの香り。とうに朝食を済ませたお母さんが食器を忙しなく洗う音。

朝の食卓は相当に無国籍で、いつも通りに混沌としていた。


――よし、いつも通りだ。正常だ。


内心で胸を撫で下ろし、食パンをトースターにセットすると、ゆっくりと椅子に腰かける。



「お父さん、キャッチボールするってずっと約束してたのに」

弟が口を尖らせて責め立てるのが視界の端に映る。


「諦めろ。もう冬だろう」

お父さんは椀を手に、そんな矛盾した台詞を吐く。

大人というものはどこまでも小狡い。


「だって」

俯いた弟の頬に、確かに何かが光った。

頬にどうしたらジャムなんて付くのだろうと、半ば呆れながら顔を上げると、信じ難いものが目に入った。


右の頬に光っていたのは、またもや血だったのだ。



「お兄ちゃん、どうしたの?」

弟が心配そうに顔を上げる。生々しい傷跡を晒したままで。


「いや、何でも……」

幻覚、なのだろうか。まだ目が覚めきっていないのだろうか。


とにかく顔を洗おうと立ち上がった。

そうすれば今朝の悪夢もきれいさっぱり拭われる気がした。



悪夢――血にまみれていた大輝が脳裏に鮮烈に蘇る。






軽い眩暈を感じながら、洗面所、鏡の前に辿り着いたときだ。

僕はまたしても悲鳴を上げそうになった。


鏡の向こう側で、顔の右側をどす黒い血に覆われた僕が怯えたように存在している。


恐る恐る自分の顔に手を触れてみた。

けれどホログラムのように強張る指先を掠めるだけで、どうやら実在はしていないらしいことが分かる。



これは――



紛れもない。これは、傷ついた心を現すバロメータなのだ。



それも、僕にしか見えない、特殊なバロメータ。




特別な能力を手に入れたからと言って、素直に喜ぶ気にもなれなかった。

同じ能力なら、もっと人の幸福度に合わせて花が咲くだとか、そういう明るい能力にして欲しいものだ。


それがよりによって、他人の傷が血となって現れる能力なんて、嬉しくも何ともない。

それどころか恐ろしくすらあった。















いつものように居座る世界は、それでいていつもとは異なりすぎていた。


コートに顔を埋める老人の、僅かに露呈した部分が血に覆い尽くされていたり、

何でもない顔をして毅然と歩く女性がまだらに赤く染まっていたり。

左胸の辺りから血が滲む老婆は、心というより心臓に疾患でもあるのだろうか。



逃げ出してしまいたい。傷つく人なんて一人もいなくなればいい。

とにかく世界は薄気味悪いほどに傷ついて、見えない血をそうとは知らず流している。





怖い。恐ろしい。気味が悪い。

胸中に広がる呪詛を持て余しているとき、渚が現れたのは救いだった。



「龍也は?」

こちらへ駆け寄るときは浮かべていた笑顔は、今はもう拭い去られている。


「今日は寝坊したから、先に行ってって。電話があった」


「そっか」

何かを思案するように、渚は物憂げな目線を足元に落とす。

その目は何を見ているのだろうと思いかけ、何も見てはいないのだと思い返した。


例年よりずっと早く地面を覆う雪の衣。時折顔を覗かせるアスファルト。

それらを視界に留めていながら、渚の焦点はどこにも定まっていない。


渚のように、地球上の誰も、本当の世界など見えてはいないのだ。



そうは思っても、自分が特別だとは殊更思わない。

ただどうしようもない疎外感がほとばしるだけだった。





「ねぇ、颯」

さくさくと雪を踏みしめながら、渚はそっと語りかけるように呟いた。


「うん?」


「……大輝の、ううん、龍也のことなんだけど――」


「――おっ! セーフ!」


背後から響いた声に二人して振り向くと、数十メートル先から走り寄ってくる姿は、当の龍也だった。

何でこのタイミングで、という思いも虚しく、龍也はニタニタ笑いながら勢いよく僕と渚の背中を突いてくる。



「寝坊はどうした?」

取りあえず機嫌を損ねないようにと、皮肉めいた台詞を返す。


「朝飯食わないでダッシュで来た。いやー、今の走りは我ながら凄かった! 生涯十五年生きていてベストスリー、いや、二位ぐらいにはランクインするね。あー俺ストップウォッチ持ち歩こうかな!」


龍也の口から量産され続ける無駄な言葉の数々に、僕は愛想笑いで応酬したが、

渚はもう口角すら強張っているように見えた。


限界。


渚の端正な横顔にアフレコをするとしたら、そんな言葉がふさわしいように思える。









そんな最悪のタイミングで、大輝は訪れた。


のそのそと背を丸めて歩くその姿は、遠目にも見間違いようがない。

大輝を見つけるときだけは視力が格段に上がる龍也は、今日もやはり誰よりも先に彼を見つけ出した。


「だーいきくん」


いつものように掛けられたねっとりとした声に、大輝がびくりと振り向く。

そんな大輝を見て、僕は危うく悲鳴を上げかけた。


おどおどと震える大輝は、夢で見たまでとはいかないまでも、それにほぼ近い状態だった。

鼻から、口から、時に涙腺からも、赤黒い血が垂れ流しになっている。




目の背けようのない現実が、否応なくそこにはあった。