初出:2020年4月25日
お引越し:2022年9月19日

 

Happy Ending 全曲解説 その5 「イスタンブール・マンボ」

 

 

.~1978年のストーリー~
.~1960年のストーリー~
.~2003年のストーリー~

  【2022年9月の追記】

 

1.~1978年のストーリー~

2003.5.30

●ナイアガラ・サウンド研究会

「2003年の新曲/#05 イスタンブール」をアップしました!

 

これは、「恋するふたり」のリリース直後の2003年5月30日に、いまお読みいただいているブログの本宅となるサイト「れんたろうの名曲納戸」へ、記事をアップしたときの『 What's New 』の記述です。

 

上記をクリックして、リンク先の記事を実際にお読みいただけたら、と思います。

 

テレビ局に電話して、制作現場につないでもらい、『東京ラブ・シネマ』で流れるインスト曲の謎が氷解した…。

 

そこまでは良かったのですが、私が記事をアップしたときには、「イスタンブール・マンボ」が既にバトンをえびボクサーへ渡してしまっていました。

 

そのため、ナイアガラ・ファンがあらためて「イスタンブール・マンボ」を聴き直すには、後から『東京ラブ・シネマ』のDVDボックスを購入するしかありませんでした。(余談ですが、この“えびボクサー”、実はエビではなくシャコです。)

 

その後、2017年10月にリリースされた井上鑑氏の編曲作品集「Believing」には、「 Istanbul (Not Constantinople) / 大瀧詠一楽団 」が唐突に収録されました。

 

イスタンブール・マンボ」のフルコーラスの音源が聞けるようになるまで、実に14年間待たなければならなかったのです。

 

ただし、このバージョンは「NIAGARA TV Special Vol.1」収録バージョンとは、ミックスがいろいろ違っています。

 

ドラムのフィルインから始まり、2番の主メロディは金山功さんのシロフォンが取っています。

 

大滝詠一さんの「 う~~、うっ! 」と「 申し訳ない 」は入っているものの、その前でかすかに聞こえる大滝さんの発言は、なんと言っているのやら…。

 

そして、ついに…。

 

「 Happy Ending 」で、大滝さんのボーカル入りの「イスタンブール・マンボ」が、堪能できることになりました。

 

この「イスタンブール・マンボ」、2003年の3月28日にレコーディングされたものだとか。

 

大滝さんは、「恋するふたり」のレコーディングを同年の3月4日に行っていましたから、4月14日のドラマのスタートに向けて、「恋するふたり」のタイトルバック・バージョンの仕上げに一意専心していたのかと思いきや…。

 

ドラマ前半のストーリーが、トルコ映画『バザールで恋買います』にちなむものだと知ると、大滝さんは「イスタンブール・マンボ」のアレンジを井上鑑氏へ“丸投げ”して、ドラマ初回放送の2週間前に意気揚々と「イスタンブール・マンボ」を歌っていた、ということになります。

 

実際のところ、「イスタンブール・マンボ」の大滝さんのボーカルは、「恋するふたり」のタイトルバック・バージョンよりも艶めいているように聞こえます。

 

 

イスタンブール・マンボ」は、フォア・ラッズのヒット曲「Istanbul (Not Constantinople)」(1953年)がオリジナルです。

 

トルコの首都名が1930年にコンスタンチノープルからイスタンブールへ変わったことを受けて、

 

もうコンスタンティノープルへは帰れない、コンスタンティノープルは無いのだから…、

 

と歌ったものです。

 

The Four Lads 「 Istanbul( Not Constantinople )」

 

「Istanbul (Not Constantinople)」は、音楽史の上ではとにかく有名な曲で、ルイ・アームストロング、ポール・アンカをはじめ、新旧多くのアーティストにカバーされています。

 

国内では、ムーンライダーズや江利チエミ、柳沢真一のカバーもあります。

 

多くのカバー・バージョンも含めて大滝さんのアンテナに引っ掛かっていたのでしょう。

 

大滝さんは、ドラマ『ラブ ジェネレーション』のときに「True love never runs smooth」を提案したように、『東京ラブ・シネマ』では「イスタンブール・マンボ」の使用を発案したのではないか、と思います。

 

ここで大胆な推論を…。

 

この「イスタンブール・マンボ」に取って代わられたのは、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)だったのではないか?!

 

冒頭の「れんたろうの名曲納戸」(このブログの本宅のサイト)の記事では、ドラマ『東京ラブ・シネマ』の中でアリスの「チャンピオン」が流れたことにふれました。

アリス 「チャンピオン」 (←クリックしてお聴きください)

 

また、「 Happy Ending 」全曲解説の前回、「恋するふたり(Album Ver.)」の回 では、円広志の「夢想花」が『東京ラブ・シネマ』の劇中で使われたことも紹介しました。

 

「チャンピオン」と「夢想花」は、1978年に発売されたヒット曲なのです。

 

2003年のドラマ放送当時に、“古いニューミュージック”が流れたことに違和感を感じたものです。

 

そして…。

 

庄野真代の歌う「飛んでイスタンブール」が発売されたのも、1978年だったのです。

 

庄野真代 「飛んでイスタンブール」

 

おそらく当初は、『東京ラブ・シネマ』の劇中、喫茶店内などで流れる曲としてさりげなく「飛んでイスタンブール」が頻繁に使われる設定だったのではないでしょうか。

 

その伏線を張るために、「チャンピオン」や「夢想花」が選曲されていたのかもしれません。

 

それを大滝さんが聞きつけ、「いや、もっといい曲があるよ」と「イスタンブール・マンボ」を推して…。

 

これは、あくまでも、私の深読みですが…。

 

 

2.~1960年のストーリー~

大滝さんは「イスタンブール・マンボ」のアレンジを井上鑑氏へ“丸投げ”したのではないか、と先に記しました。

 

ナイアガラ作品では「編曲:井上鑑」となっていても、大滝さんがベーシック・トラックをヘッド・アレンジした後で、井上鑑氏が編曲した弦などの“うわもの”がダビングされる…というのが実態のようです。

 

演奏のテンポ決めやカウント出しなどを大滝さんが直にすることも多かったのです。

 

一方、「 Happy Ending 」で聞ける「イスタンブール・マンボ」の冒頭では、村上“ポンタ”秀一さんが、「♪ ワン、トゥー 」とカウントを取っていたので、大滝さんの関与の度合は低いのかと思ったのです。

 

ところがその後、「イスタンブール・マンボ」を聴き返して気づいたポイントが、二つありました。

 

まず一つ目は、この「イスタンブール・マンボ」は、劇伴用のインストゥルメンタル作品として制作されたものではなく、大滝さんのボーカルが主役になることを前提にアレンジされているということです。

 

しかし、『東京ラブ・シネマ』では、後に述べる“別の挿入歌”が先に決定していたため、大滝さんのボーカル入りの「イスタンブール・マンボ」は、ドラマ挿入歌としては見送られたのかもしれません。

 

ドラマ『ラブ ジェネレーション』で「Happy Endで始めよう」が採用されたときのようにもう1曲…、という大滝さんの思惑どおりにはいかなかったのでしょう。

 

大滝さんのプランでは、「イスタンブール・マンボ」のボーカル入りバージョンは、「恋するふたり」のシングルのカップリング候補曲だったのかもしれません。

 

「NIAGARA TV Special Vol.1」収録の「イスタンブール・マンボ(Inst Ver.)」を聞くと、主旋律を演奏している音色は、サンプリング音源の木管楽器系の音色を、キーボードで弾いているかのような印象です。

 

●「イスタンブール・マンボ(Inst Ver.)」 (←クリックしてお聴きください)

 

管楽器のタンギングにしては不自然な発音の長さや、木管楽器にしてはピッチがゆれなさ過ぎることなどから、そう思えてきます。

 

ボーカル入りバージョンではなく、インストゥルメンタル・バージョンとして「イスタンブール・マンボ」がドラマで使われることになり、急遽、主旋律を後からダビングしたせいなのかもしれません。

 

そもそも、ソプラノサックス(またはピッコロサックス)の本物の音色は、「イスタンブール・マンボ」の間奏で聞けます。

 

主旋律を奏でている音色と、間奏で登場する“本物”の音色との“違い”は、聞けば歴然です。

 

そして、もう一つのポイントこそが、その間奏部分なのです。

 

イスタンブール・マンボ」の1番のボーカルと2番ボーカルの間奏に、大滝さんならではのアイデアが込められているのです。

 

つまり、井上鑑氏へアレンジを“丸投げ”したのではなく、重要な指示がなされていたということになります。

 

イスタンブール・マンボ」の最後では、こんなやり取りが“敢えて”残されています。

 

「 申し訳ない…(笑) (大滝詠一)


「 いろいろ出ますねぇ (吉田保)
 

「 いちおう、九ちゃんのシリーズで… (大滝詠一) 

 

大滝さんの「申し訳ない」というフレーズは、坂本九さんが、ダニー飯田とパラダイス・キングと関わりの深かった頃に出演した映画「パラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち」にちなんでのものかと…。

この映画の劇場公開日は1962年12月30日でした。

 

 

いちおう、九ちゃんのシリーズで… 」という発言から、何テイクか録った「イスタンブール・マンボ」のエンディングでその都度、九ちゃんにちなんだ一言を大滝さんが発していたことがうかがえます。

 

なぜ、九ちゃんなのか。

 

それは、大滝さんがイスタンブール・マンボ」の間奏(1:501:58)で、ダニー飯田とパラダイスキングの「悲しき六十才 Mustapha~ムスターファ」のイントロ( 0:040:14 )を引用しているからなのです。

 

大滝詠一 「 イスタンブール・マンボ 」

 

「悲しき六十才」は、'60年当時、ダニー飯田とパラダイスキングのリード・ボーカルであった坂本九さんにとって初のヒットでした。

 

「上を向いて歩こう」(1961年)の前の年ということになります。

 

 

「悲しき六十才」は、『坂本九オフィシャル・ウェブサイト』でも、大切な一曲として掲載されており、日本航空123便墜落事故の慰霊式での鎮魂曲にもなりました。

 

では、百読は一聴に如かず、ということで、まずは「悲しき六十才」の動画でイントロを聴いて、「イスタンブール・マンボ」の間奏に引用されたフレーズを、ご確認ください。

 

動画の0:49~あたりからは、坂本九さんのリード・ボーカルが聞けます。

 

「悲しき六十才 Mustapha~ムスターファ」(1960年)

歌 :ダニー飯田とパラダイスキング


訳詞:青島幸男
作曲:アザム&バークレィ
編曲:ダニー飯田

 

「ムスターファ(Mustapha)」は、もともと1950年代にエジプトの学生達に歌い継がれていた曲で、ボブ・アザムとフランスのバークレー・レコードのエディ・バークレィが採譜、編曲。

 

ボブ・アザムが仏、伊、独、アラビア語で録音し、当時、世界各国でカバーされました。

 

「悲しき六十才 Mustapha~ムスターファ」も、そのうちの一つでした。

 

「ムスターファ(Mustapha)」は '60年に世界中でヒットした曲だったのです。

 

現在に至るまでに多くのカバーが生まれ、YouTube上でも数え切れない「Mustapha」が聞けます。

 

というわけで、ボブ・アザムのオリジナル・バージョンも聞いてみましょう。

 

Bob Azzam 「 Mustapha 」

 

ボブ・アザムのバージョンには、大滝さんが間奏に引用したフレーズが出てきませんし、もちろんトルコの風情を感じさせる要素はありません。

 

ダニー飯田氏はこの曲をカバーするにあたって、世界各国のカバーのうち、よりエスニックで異国情緒なものを参考にしたのでしょう。

 

もしかしたら、ダニー飯田氏のオリジナルなアレンジから生まれたフレーズなのかもしれません。

 

大滝さんにとっては、この'60年の「悲しき六十才」がエスニックでターキッシュな音楽の象徴的作品だったのでしょう。

 

 

ラジオ関東時代の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の第74回(1976.11.9放送)は「坂本九&弘田三枝子特集」でしたが、「悲しき六十才」がオンエアされています。

 

●『大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2001.12.29)』(←クリックしてYouTubeでお聴きください)(当該部分の頭出し済)

 

さらに、2001年12月29日放送の『大瀧詠一のスピーチ・バルーン』でも、大滝さんは「悲しき六十才」をかけ、ゲストの草野浩二氏へ坂本九さんのデビュー当時の話を詳しくインタビューしていました。

 

「悲しき六十才」は、草野浩二氏のディレクターとしてのデビュー作だったのです。

 

この回のテーマは「日本ポップスにおける洋楽カバー曲の変遷を語る」でした。

 

まさに、日本ポップスにおける洋楽カバー曲の変遷というの大きな流れの中で、大滝さんは、有名なスタンダード曲「 Istanbul (Not Constantinople) 」の途中に、有名曲「ムスターファ(Mustapha)」のカバーの日本オリジナルの部分を取り込むという手さばきを見せたことになります。

 

この手さばきは、スタンダード・ナンバー「 私の天竺 My Blue Heaven 」(「 DEBUT AGAIN 」Disc-2 収録 )の間奏で、もともとはアメリカ民謡だった「峠の我が家」を登場させたときの大滝さん独自のインスピレーションと同じ、と言えるでしょう。

●大滝詠一 「私の天竺」 (←クリックしてお聴きください)

 

大滝さんの草野氏へのリスペクトな関係は続き、2009年7月に出た「萩原哲晶作品集」では、草野浩二氏が企画・監修を手掛け、大滝さんがブックレットの巻頭ライナーノーツを著していました。

 

 

ちなみに、草野浩二氏は、あの漣健児こと草野昌一氏の実弟です。

 

漣健児氏は、日本における数々の洋楽カバー曲で訳詞、作詞を手掛けたことで知られます。

 

 

3.~2003年のストーリー~

『東京ラブ・シネマ』の番組宣伝では「 主題歌:大滝詠一、 劇中歌:バグルス 」というのが売り文句の一つでした。

 

『東京ラブ・シネマ』DVDボックスでの宣伝文句は、以下のように謳われていたものです。

 

日本ポップス界の重鎮・大滝詠一が5年ぶりの新曲として放った主題歌「恋するふたり」と、 挿入歌として流れるバグルスの '79年の大ヒット曲「ラジオスターの悲劇」が物語を盛り上げる!

 

2003年の春期ドラマ『東京ラブ・シネマ』では、'78年から'79年にかけて日本でヒットしたニューミュージックの曲が挿し込まれる一方、'79年の世界的ヒット曲「ラジオスターの悲劇(Video Killed The Radio Star)」がメインの挿入歌として流れたのです。

 

The Buggles 「 Video Killed the Radio Star 」

 

このドラマの後に、ドラマチックな展開がありました。

 

'79年に「ラジオスターの悲劇」をヒットさせたバグルスのトレヴァー・ホーンは、その後、“ '80年代を創った男 ”と呼ばれるほどの世界的な音楽プロデューサーへと変身を遂げます。

 

そのトレヴァー・ホーンが、ある映画の音楽プロデュースを担当します。

 

2003年の『モナリザ・スマイル(Mona Lisa Smile)』が、それです。

 

ジュリア・ロバーツの主演で、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』も手掛けることになるマイク・ニューウェル監督の作品です。

 

 

トレヴァー・ホーンは、『モナリザ・スマイル』のサウンド・トラックで、映画の時代背景に合わせて、'50年代の、しかもエルヴィス・プレスリーのロックン・ロールが登場する前の時代を彩り、その後にスタンダード化した曲たちを、丹念に選曲しています。

 

その一つとして「 Istanbul (Not Constantinople) 」が選曲され、カバーされているのです。

 

トレヴァー・ホーン・オーケストラ名義の「 Istanbul (Not Constantinople) 」では、なんとトレヴァー・ホーン本人が歌っています。

コーラスも本人歌唱の多重録音です。

 

The Trevor Horn Orchestra 「 Istanbul (Not Constantinople) 」

 

『モナリザ・スマイル』がアメリカで公開されたのは2003年12月でしたから、『東京ラブ・シネマ』の放送終了後のことです。

日本での公開はさらに翌年、2004年8月のことでした。

 

大滝さんは、映画製作情報などを漏れ聞いて、あのバグルスのトレヴァー・ホーンが「 Istanbul (Not Constantinople) 」をカバーする、なんて話を耳にしていたのでしょうか?

 

それとも、単なる“偶然”なのでしょうか?

 

そもそも、「ラジオスターの悲劇」をドラマ挿入歌へと提案したのは誰だったのか?

もしかして、これも大滝さんだったのではないでしょうか?

 

イスタンブールがコンスタンティノープルを消し去り、テレビがラジオスターを葬った…。

そんな重層的な構図が大滝さんの頭の中にあったのでしょうか?

 

“日本ポップスにおける洋楽カバー曲の変遷を語る”ような仕掛けが「イスタンブール・マンボ」のほかに「恋するふたり」にも秘められているのでしょうか?

 

もしかして、漣健児さんにオマージュを捧げるような歌詞が、「恋するふたり」に埋め込まれているのでしょうか?

 

考えだすと、謎はつきないのですが、ここで私は、「東京ラブ・シネマ」の後、2004年の新春放談で、大滝詠一さんが語った一節を思い出すのです。

 

“必然というのは最初は偶然の仮面を被って登場する”

 

さて、私、ナイアガラ作品の中でもメロディー・タイプの曲の研究が専門分野でして、どちらかというとノベルティ・タイプの「イスタンブール・マンボ」についての解説は、このあたりが精いっぱいのようです。

 

「申し訳ない…」

 

(結局、これが言いたかった)😃

 

 

【2022年9月の追記】

本編の解説では、「悲しき六十才 Mustapha~ムスターファ」にまつわるエピソードとして、ラジオ番組『大瀧詠一のスピーチ・バルーン』での草野浩二さんとの対談を取り上げました。

対談は興味深いものでした。


「詞なんか書いたことないからなー」という青島幸男氏に詞作の第一号を依頼したのは、草野浩二さんだった…。
「悲しき六十才」という奇抜なタイトルは、当時流行っていたザ・ピーナッツ「悲しき16才」をもじったもので、青島幸男氏は原詞の意味なんて分からないので“訳詞”というよりも適当に詞を作った…。

 

そして、何よりも、「これ面白いんじゃないの?」とカバー曲の素材として「ムスターファ」を推薦したのは、兄の草野昌一さんだったのですね。

 

折しも2022年9月16日に、草野兄弟のお兄さん、漣健児こと草野昌一さんに関する書籍、『新しい音楽 漣健児とカヴァー・ポップス』が刊行されました。

同書には、過去に出版された同様の“漣健児ブック”2冊から、大滝さんとの対談などが再録されています。

 

『漣健児 カバーポップスの時代』(1998年)から『対談 漣健児×大瀧詠一』が再掲載されています。
'81年のラジオ番組『スピーチ・バルーン』が初出です。

 

『漣健児と60年代ポップス』(1988/2005年)からは、大滝さんが寄せた『私の好きな漣健児』が収録されています。

 

 

今回の『新しい音楽 漣健児とカヴァー・ポップス』の著者の高護(こうまもる)氏は、32歳のときに大川俊昭氏との共著で『定本はっぴいえんど』を執筆した方ですね。
作品集「漣健児60年代の60曲」(1998年)の監修も手掛けています。

 

 

大滝さんは、その漣健児こと草野昌一さんと2000年代の『大瀧詠一のスピーチ・バルーン』でも対談しています。

 

●『大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2001/12/22)』 (←クリックしてお聴きください)

 

この回のテーマは、「草野昌一と洋楽カバーが日本ポップスに与えた影響を語る」でした。

 

対談の後半で、大滝さんの

 

「GS(グループ・サウンズ)の人たちは、コンサートでは洋楽カバーばかりやってたけど、レコーディングではカバーが少なかったのはなぜなのか」

 

という疑問に対して、

 

「GSの頃には、レコード会社のプロデューサーと出版社が楽曲を決める権限を持ってくるようになった。それとともにフリーの作家も増えて、彼らからの売り込みもあった」

 

という回答を、草野昌一さんが示していて、興味深かったです。


“訳詞家”でもありシンコーミュージックの役員でもあった、草野昌一さんの立場からの発言だと感じます。

 

そこで大滝さんが、安井かずみさんの名前を出すと、草野昌一さんが


「安井かずみを“みナみカズみ”と名付けたのは僕。彼女は横浜市南区に住んでたから」

 

と返したのは、これまた興味深かったです。


シンコーミュージックで訳詞のアルバイトをしたことが、作詞家・みナみカズみ誕生の端緒だったのですね。

 

 

弟の方の草野浩二さんと大滝さんとの対談には、パート2がありました。

 


●『大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2002/01/26)』(←クリックしてお聴きください)(該当部分の頭出し済)
 

テーマは引き続き、「草野浩二 洋楽カバーと日本歌謡」でした。

 

聴きどころは、坂本九「涙くんさよなら」をかけた後のくだりです。

ダニー飯田とパラダイス・キング(パラキン)が、メイン・ボーカルをとっかえひっかえしながらカバー作品を発表していた頃を、振り返ってのお話。

 

大瀧
「キング・オブ・ザ・ロード」は普通なかなかカバーしないでしょう。

 

草野
ビートルズ登場以降、アメリカンポップスでキャンデイ・ポップが無くなっちゃった。
カバーする曲がないんですよ。
日本語が乗りそうな、日本人が好みそうなメロディを探して、「キング・オブ・ザ・ロード」をカバーしたんです。


キャンデイ・ポップとは、一般的には女性ボーカルをフィーチャーしたキャッチーで踊れる曲。

 

'65年にパラキンがB面でカバーした曲の「キング・オブ・ザ・ロード」の話を、大滝さんの方から先にふっているのですね。
上の動画では49:07~でチラッとパラキンのカバーが流れます。

 

そして、「キング・オブ・ザ・ロード」のオリジナルは、これです。

●Roger Miller 「 King of the Road 」(1965年) (←クリックしてお聴きください)

 

そう、ロジャー・ミラーといえば、「Tall Tall Trees」を作り、歌ったその人ですね。

 

 

「 Tall Tall Trees 」は、'97年の“ナイアガラ・リハビリ・セッション”で演奏され、「 DEBUT AGAIN 」にも収録されました。

 

Roger Miller 「 Tall Tall Trees 」

 

さて。

 

洋楽カバーを日本語詞で歌う“漣健児のカバー・ポップス黄金時代”は、坂本九の「ステキなタイミング」(1960年)から始まって、ほんの数年間でした。

 

これは、健全なアメリカンポップス、すなわち大滝さんの得意とするブリルビルディング・サウンド系譜のティーンネイジ・ポップスの全盛期と、当然ながら時を同じくしています。

 

大滝さんについて、ともすれば、「カラーに口紅」で洋楽に目覚め、それからアメリカン・ポップス一辺倒のように取られがちですが、(レコードこそ買わなかったものの)日本語詞を乗せたカバー・ポップスもバランスよく聴いていたようです。
ラジオ番組「ゴー・ゴー・ナイアガラ」では、坂本九やパラキンや弘田三枝子の曲が、しばしばオンエアされました。

 

草野浩二さんの話では、「当時はオリジナルの洋楽よりも日本語詞のカバーの方が売れていた」とのことです。
大滝さんは、大衆に沿った音楽の聴き方もしていたと言えるのでしょう。

 

日本語で歌うロックの先駆者である、はっぴいえんどの始動は1970年。


その10年前には、“漣健児のカバー・ポップスの世界”が、日本語詞で洋楽的な楽曲を歌ってもダサくならないような実験や下地づくりをしてくれていました。

 

それ故、大滝さんにとって、日本語でロックをやることの障壁は、低かったのではないでしょうか。

 

 

ちなみに、私の好きな “訳詞:漣健児” の曲は「砂に消えた涙」です。


弘田三枝子の歌唱を想定して書かれた日本語詞を、オリジナル歌手のミーナが先に歌ってしまいました。
そのためか、後に出た弘田三枝子のカバー・バージョンも「ゴー・ゴー・ナイアガラ」では一度も流れずじまい。

 

ここでは、2003年の名カバーを…。

●竹内まりや 「砂に消えた涙」 (←クリックしてお聴きください)