前回のブログの更新からかなり経ってしまいましたが、映画のブロウにも出てきた人物「パブロエスコバル」について、ネットからポロポロとネタを拾いつつコピペしながら、人物像をまとめてみたいと思います。

エスコバルは、コロンビア最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」を創設し犯罪組織指導者として君臨、「麻薬王」として世界中に悪名を轟かせ、またサッカークラブのアトレチコ・ナシオナルの元オーナーでもあった。


世界最大の麻薬消費国であるアメリカをはじめ世界中でコカインを密売し世界有数の大富豪の一人に上りつめた。

エスコバルの命令によって400人以上の人が殺されたと言われているため、
コロンビアやアメリカでは、「史上最も凶悪非情な野心に満ちた麻薬王の一人」として知られている。

大富豪であったエスコバルの自宅には飛行場、私設軍隊、動物園まで所有していた。

1980年代、メデジン・カルテルは販売ルートを拡大して、ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインをメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んだ。その後も販売ルートを拡大して、南北アメリカ大陸や一部アジアとも取引するようになりコロンビア政府やアメリカ政府と激しく対立するようになる。
最盛期のメデジン・カルテルは、世界のコカイン市場の8割を支配し年間最大250億ドルの収入を得ていたと見積もられ、エスコバル自身も世界で7番目の大富豪としてフォーブス誌に取り上げられたこともある。エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府の敵であったが、貧困層の住宅建設、サッカースタジアム建設などの慈善事業に熱心で、無知で無学な貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得て彼らの英雄となった。
援助を受けたメデジン市民の中には、自ら警護役や見張役をかって出てエスコバルの身を官憲から守る者もいた。一時的ではあったが、コロンビアの国会議員を務めたこともある。

1980年代後半、コカイン流入に頭を痛めたアメリカ政府は、「エスコバルの引渡しとアメリカ国内での裁判」を条件にコロンビア政府と協定を結んだ。

これに激しく反発したエスコバルは「plata o plomo (「お金か鉛(銃弾)か」の意。

つまり「贈賄か暗殺か」という事)」と称し、政治家・役人・裁判官への贈賄工作を活発化させる一方、敵対者への暗殺・テロを敢行した。

1985年に発生した左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件はエスコバルの関与が噂された。

さらに1989年、メデジン・カルテルは、ルイス・カルロス・ガランら大統領候補者3人の暗殺アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビルの爆破などのテロ行為を実行している。

そしてライバル組織であるカリ・カルテルとの抗争も激化し、メデジン周辺は無政府状態に陥った。

1991年、政府や敵対者との抗争に疲れたエスコバルは、5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、「ラ・カテドラル(La Catedral、教会の意)」または「ホテル・エスコバル」と称されるエスコバル個人用の豪華な設備を備えた刑務所(この収監先の刑務所施設自体が以前にエスコバルの寄付により建設されたものだった)に収監された。

サッカー場やディスコさえ備えられていた「ラ・カテドラル」での生活は快適で、エスコバルは今までどおり組織に指示を与え、メデジン市内に外出しては買い物やパーティー、サッカー見物を楽しんだ

しかし1992年にエスコバルが刑務所内で2件の殺人事件を起こし(殺された2人の内、1人はエスコバルの幼馴染だった。幼馴染の友人は、囚人の前で幼馴染であるエスコバルに気安い態度を取り、それに激昂したエスコバルが男性を射殺した)、事件が表面化すると、さすがに世論も沸騰、及び腰だった政府も動き、別の刑務所への移管が計画された。

1992年7月22日移管の日、エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて刑務所を出ると、移管先の刑務所に向かわず、そのままメデジン市中に姿を隠した。


南アメリカというか、コロンビアという国はなんて自由な国なんだろう。