倚りかからず
本編に入る前に、ツインレイの彼女(=片割れ)のやっているブログをご紹介させてください↓↓↓
なれそめ
茨木のり子さんは「自分の感受性くらい」という詩から知りました。自分の感受性くらい、自分で守れよ。そう語る、厳しくも力強く励ましてくれる、そんな詩でした。現代風に言えば「自分の機嫌は自分でとれよ」ですかね。以来、茨木さんのことが気になっていて、『倚りかからず』の本も手元に寄せたのでした。
読んでいて、わたしはスピリチュアルの目醒めを決めた人の生きかたを連想しました。というのも、目醒めを決めるというのは、自分の現実は自分で創造していることを信じることなのです。「自分の感受性くらい」に関して言えば、被害者意識を持っていては、決して現実は変えられず、意識の目醒めもならない。それがスピリチュアルの世界なのですから。
この記事で紹介するのも、目醒めの意識に通じていそうな、茨木さんの詩を取り上げます。
グッときたポイント
読んでいて、とくに「ある一行」という詩が気に入りました。
ある一行
一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行
絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった
同じ訳者によって
〈絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!〉
というわかりやすいのもある
今この深い言葉が一番必要なときに
誰も口の端にのせないし
思い出しもしない
私はときどき呟いてみる
むかし暗記した古風な訳のほうで
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
(『倚りかからず』より:太字は引用者)
昔覚えたある外国語の詩の一行。その一行には二つの訳され方があって、新しい訳のほうはわかりやすい。けれども古い訳よりも人々の間に広まっていない。自分は古いほうの訳から語りかけられた「意味」を思い、ときどき暗誦してみる。──そんな一場面を歌った詩です。
わたしは、《淡々と》という言葉に、とても揺さぶられるものがありました。というか、そこがこの詩の肝の部分に感じたのです。
絶望も、希望も、ひとの世の夢幻のごとくなり。
そんな幻に足を止めることなかれ。
《淡々と生きていけ!》
この力強さにグッときたのですね。
また、辞書を読むとこの詩の深みによりいっそう触れることができるように思います。
たんたん【淡々】〔タル〕①あっさりしてこだわらないようす。indifferent「──と語る」②味わいやものの感じなどがあっさりしているようす。plain ; light「──とした味」
(新世紀ビジュアル大辞典)
2つの意味が、【淡々】にはあることが分かりますね。ひとつはこだわりがないこと。絶望だとか希望だとか、そんなものに目をくれずに歩み続ける、淡々とした姿が浮かびます。
もうひとつの意味は、重たくないこと。辞書には〈味〉のイメージで意味が書かれていますが、味にも重いものや軽いものがありますね。転じて、絶望だとか希望だとかをいちいち重く受け止めずに、軽い身のこなしで気軽に生きていく、そんな理解を得られます。
わたしが「ある一行」の詩を読むのに目を止めたもうひとつの言葉に《わかりやすい》があります。後半の、新しいほうの外国語の詩の日本語訳についてのくだりで登場する言葉ですね。
《わかりやすい》のにもかかわらず、新しい翻訳のほうでは印象が弱くて、「ある一行」での詩人は、表現がお堅くて重たい印象さえある、古い翻訳のほうを口ずさんでいる。しかも、先ほど取り上げた《淡々と生きていけ!》という意味を再生させたのは、その古い翻訳のほうからなのです。
表現がお堅くて重たい印象の、古い翻訳のほうに感動している。こちらのほうが記憶に引っかかっている。これがこの詩の、詩としての味わい深さに思います。
淡々と生きていけ!
《淡々と生きていけ!》というメッセージは、スピリチュアルを心がける人の生きかたに示唆するものがあります。
【淡々】の意味を調べて出てきた、2番目の意味に「light」がありました。日本語にすると〈軽い〉という意味ですね。
ご存知の方もおられると思いますが、スピリチュアルの世界には「ライトボディ」なる概念があります。ライトボディのライトはふつう〈軽い〉という意味ではなく、〈光の〉という意味で理解されますが、同じ light の一語で通じ合っているイメージとして、その繋がりを無視することはできません。
ひとつ目の意味の〈こだわりがない〉ことも大切です。こだわりは執着に通じるものです。執着はエゴを強めてしまい、強いエゴは真我との繋がりを弱めさせてしまいますから。
そうしてみると、やはり【淡々】は人の生きる姿勢を導く言葉として良い気がしてきます。〈淡〉の字にしても、氵(みず)+炎(ひ)で、人の心を表すのにふさわしいものに思えます。偏りがなくて、波動の軽いもの。──これぞ淡々様!
こうしてみると、【淡々】の持つふたつの意味が重なっている態度を言い表している箇所が気になってきます。先ほどの辞書をもう一度見てみると、
たんたん【淡々】〔タル〕①あっさりしてこだわらないようす。indifferent「──と語る」②味わいやものの感じなどがあっさりしているようす。plain ; light「──とした味」
(新世紀ビジュアル大辞典)
〈あっさりしている〉という態度が、両方の意味において共通しているイメージであることに気づきます。
「あっさりと生きる」なんて言いかたは耳馴染みがありませんが、そんな生きかたがあるとすれば、どういったものになるんだろうか? ──なんて模索してみるのも、生きる味わいなんじゃないかな、なんて思うのです。
こんなふうに書いてみましたが、そういえば、わたしが敬愛するスピリチュアリストの方々はみんな、淡々としているなぁ。
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