球体の神話学
なれそめ
だいぶ前のことになりますですが、わたしは「丸いもの」に惹かれていました。それは今でもあって、正確にいうと球体というよりも円環のほうに、心が動いていたのです。
なにかと創作したがる性分ですから、円環をモチーフにした詩なり小説なりを書きたいな〜と思っていた頃、丸いもの二について書かれた本を収集していたんですね。
この『球体の神話学』もそういった関心の中で、わたしの目に留まったのです。
グッときたポイント
「神話学」とタイトルにありますが、内容は「球体」に関する神話や伝説へと想像力をゆらめかせ、ゆらめいた先に触れたものを題材に書きつづられたエッセイです。
今回、スピリチュアルをテーマにする当ブログで記事にしようと思ったのは、「人間もかつては球体だった⁉︎」という文章についてのメモを残しておきたかったからです。
わたしの関連するところで言うと、このブログでわたしはツインレイの片割れとして、もう一方の片割れである彼女とのあれこれを書きつづっております。ツインレイとはかつて宇宙にあった頃は一つの光としてあった魂が、二つに分かれて地上を体験しに生まれて来て、いずれは統合して再び一つの光となる、そんな存在のことを言います。
高橋睦郎さんが「人間もかつては球体だった⁉︎」と述べている、その〈球体〉のイメージと「ツインレイ」とが、わたしの中で同じ……とまでは行かないにしても、似ている気配を覚えたのです。
「人間もかつては球体だった⁉︎」は、人間はもともとは球体だったと主張していたのは、古代ギリシア時代の哲学者・プラトンだった。──その事実から出発します。
そのプラトンの書物とは『饗宴』として知られる本なのですが、プラトンの言葉をじかに引くと長くなってしまうので、ここでは高橋睦郎さんの文章を引いてみたいと思います。
かつて人間は三つの種族から成る球体生物だった。球体という完全なかたちの然らしめるところから、彼らは強力で大志を持ち、ついに神神に反逆した。神神は彼らを懲らしめるために、彼ら球体生物一体ずつをまん中から二つに引き裂いて、べつべつに放逐した。かつての完全体の割符となった彼らは、かつての完全体を回復するためにもう片方の割符を探し求める。
高橋睦郎『球体の神話学』p206
プラトンの元の文章では球体人間には三種類いて、それぞれの性のペアが男男、女女、男女のセットで一個の球体になっていたそうな。それで、男女の球体だけは男は女好きで、女は男好きであるために、罪の温床のように言われていました。
プラトン的には同性同士で球体になっているほうがいいらしく、とりわけ男同士でくっついているのは最高の球体の状態らしい。
……って、古代ギリシアの頃の人間観はいいとして、
もしも完全な球体の割符同士が出会えたときのことを語るプラトンの言葉には、グッとくるものがあります。
かの他ならぬ自身の半分に出会うと、その時には愛と親しみと恋とに実に驚くばかり心を奪われ、少しもおたがいに離れることを欲しないと言いうるほどである。
『プラトン全集』3・山本光雄訳
ここの部分、胸にじーんとくるものがあります。
わたしと片割れとが出会ったときの感覚を、ふっと思い出してしまうのです。
ツインレイのイデアとして「球体」を思う
プラトンには「イデア説」というアイデアがあります。イデア説は、遠い時代に理想状態があって、わたしたちはその状態を思い出すことで真実に触れることができる。──そんな考えかたが。
わたしが片割れと出会い、そして抱擁したときの感覚は恋なのか、それとももっと広い意味での親しみなのかが、わからないものでした。ただ、その体験が互いを混乱させるものとなったのは確かです。
スピリチュアル的な目覚めのきっかけになる出来事は、しばしば混乱を伴うものとなるらしいですが、私たちもそうでした。
高橋睦郎さんはプラトンの言葉をまとめて次のように言います。「その完全な球体は単に肉体的なものではなく、肉体を超えて魂の結合を求めるものでなければならない。」
〈魂の結合〉。──ツインレイが統合を目がけて魂レベルでプログラミングされた存在であるならば、肉体を持った個体として再会したことは段階としては初期のものに過ぎないのでしょう。運命を直観し、魂レベルでの目覚めをしていき、やがては「魂の結合」を迎える。
魂の結合を果たしたその姿は、もしかすると球体なのかもしれない。それを確かめる術は今のところありませんが、球体という形が持つ「完全感」とでも言うべきイメージは、なんというかツインレイの結実を思う手がかりになりそうだよな、なんてことを思うのです。
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